【10:おつかれさま】

ずっと里外で長期で任務にあたることが多く、里で住むところにはあまり拘らない。
が、今まで住んでいたところが古くて取り壊されることになり、引っ越しを余儀なくされた。
面倒なので目に入った物件に決めたのだが、そこがまた大丈夫なのか?と問い質したいくらい古ぼけた木造アパートだった。近々ここも取り壊されるんじゃないかと疑ったが、そんな予定はないという。
まあいいか。
どこでも同じだ。雨風がしのげればそれでいい。
そう考えて、そこに決めた。


短期の任務が終わり、次の任務まで一日ぽっかりと穴が開くことがある。
数日あれば鍛錬しようかとか、武器を磨いておこうか、という気にもなるのだが、一日だけではそんな気も起きない。そういう時は部屋でごろごろと余暇を楽しむのが俺のモットーだった。
愛読書を読みふけっていると、隣の住人が帰ってきたらしい。
階段を登る足音。廊下を歩く気配。
特に聞き耳を立てているわけではないが、安普請のアパートだからよく分かる。
鍵を開けると扉がぎぃと悲鳴を上げる。
「ただいま」
声が聞こえた。
あれ? 隣も一人暮らしじゃなかったっけ。同棲でも始めたんだろうか。
しかし、今まで隣に居て人の気配は感じることはできなかったのだが。
興味が湧き、耳をそばだてた。
出迎える声は聞こえなかった。
あたりまえだ。誰かが居るはずがない。
そこでようやく、からっぽの部屋に向かって「ただいま」と言ったのだと気づいた。
変な人。
最初はそう思った。
しかし、それから度々その言葉を聞くようになり、俺の気持ちも変わっていった。
たぶんそれは習慣なのだ。
家族と一緒に暮らしている頃からの習慣。
きっと暖かな家庭だったのだろう。身に付いた習慣が消えないくらいの。
そう考えるとなんだか羨ましくなった。
だから、できるだけ彼が帰ってくる時間を見計らって帰るようにすらなっていた。
ひそかに調べたところによると、どうやら彼はアカデミーの教師であり、任務受付所の事務も兼任しているらしい。
気になって、こっそりと見に行った。
受付所での彼は、いつもにっこり笑顔で報告者を出迎える。
「おかえりなさい」「お疲れさまでした」
そう言われるだけで相手もほっと表情が緩み、気分良く帰っていく。
それはそうだろう。誰だって労われれば嬉しくなるものだ。
しかし。
受付で誰も彼もに「おかえりなさい」と言う彼は、自分自身に言ってもらうことがない。毎日繰り返されるであろう「ただいま」の言葉は、誰にも返されずあの部屋に消えていく。
それはとても寂しいことなんだろうか。
けれど、彼の声はいつも愛おしさに溢れていて、俺の心さえ温かくさせる。
帰り着く場所に払われる敬意と愛情が好きだ。そして、そんな彼に「おかえりなさい」と言いたくなるのだ。
彼と帰るところが一緒だったらどんなにいいだろう。今はまだ勇気がないけれど、いつか彼を出迎えられる存在になりたいと願っている。
その野望を叶える第一段階としては、知り合わなければならないということだ。
とりあえず仕事を終わるのを待ち伏せしてみようか。
まずは「おつかれさま」と声をかけてみるのだ。
驚くかもしれない。変質者だと思われたらどうしよう。
が、もしも笑ってくれたら、俺の願いもいつか叶う日がくるかもしれない。
その計画は心浮き立つものであり、俺をほんの少し幸せにする。
「ただいま〜」
彼が帰ってきた。
「おかえり。今日も一日おつかれさま」
自分の部屋の中で小さく呟いたのだった。


[2008.10.04]