くしゃん。
授業が終わって職員室へと向かう廊下で、イルカはくしゃみをした。少し背筋がぞくぞくする気がした。
「風邪ひいた…」
子供と接する機会が多い教師は、風邪を貰いやすい。季節柄まだ大丈夫だろうと油断していたのがよくなかったらしい。
早く家に帰って休みたいところだが、今日はまだ受付の仕事が待っている。行かなくては周りに迷惑をかけてしまう、と自分を鼓舞してイルカは受付に向かった。
受付所に入って机の定位置に着いた途端、イルカを呼ぶ声がする。
「イルカ先生。もしかして調子悪いんじゃないですか!?」
恋人のカカシだった。
タイミングが悪い、とイルカは顔を顰める。心配してくれるのはありがたいが、カカシはおおげさなところがある。現に周りにまで知られてしまった。
それでは困るのだ。できるだけ穏便に受付任務を遂行してさっさと帰りたい、とイルカは思っていた。
「たいしたことありませんよ」
笑顔で牽制するが、カカシはかまわずしゃべり続ける。
「だって。顔も赤いし、どう見ても熱があるでしょう? 早く帰った方がいいですよ」
「そんなおおげさな」
もういいからこれ以上騒ぎにならないうちに帰ってくれないかなぁと思いつつ、イルカは答えた。
イルカには早退するがないらしいと知り、カカシが青ざめる。
「もう帰りましょう。仕事なんて放っておけばいいじゃないですか」
「何言ってるんですか! 駄目ですよ」
カカシの言葉に、イルカの表情がキッときつくなる。
イルカにとって仕事を放棄するなんてとんでもないことだ。けれど、カカシにはイルカの体調の方が案じられる。どうあっても早退させたくて叫んだ。
「も、もしかしたら新型インフルエンザかもしれないでしょ!」
その言葉に周りがざわめく。
今の木ノ葉で流行しているインフルエンザ。今までにない病気として噂に噂を呼んでいる。誰もがうつされたくない思いで後ずさった。
カカシとイルカの半径5m内には人っ子一人いない。
ここまで大騒ぎになってしまい、イルカは頭を抱えたかった。
ちょうどそこへ五代目がやってくる。
「イルカ。インフルエンザにしろ風邪にしろ、受付で菌をばらまくわけにはいかないだろ。今すぐ医療班へ行って検査を受けな」
受付所は除菌スプレーを常備してマスクは必ずかけるように、などといった適切な指示を与えることでその場は収まった。
当然イルカも指示に従い、検査を受けたが結局風邪と診断され、家に帰されることになった。
自分の意見が通って早退できたと信じているカカシは、イルカを背負って帰宅して上機嫌だ。
「さ。寝ててください。俺はおかゆを作ります! 味噌味でいいですよね。食べたら薬飲みましょうね〜」
カカシは世話をするのが嬉しいのか、いそいそと台所へ行ってしまった。
そういえば冷蔵庫には何もなかったはずだ、と熱が上がり始めた頭でイルカは考える。具材はもちろんのこと、昆布も鰹節も煮干しも椎茸もない。だしの素すらない。買い物をしてから帰ろうと、朝の時点では考えていたのを思い出した。
せめて塩味にしてもらえばよかった。カカシに伝えようかともと思ったが、熱による脱力感に襲われて、遠く離れた台所まで届く声を出す気力が湧いてこなかった。
どうせ薬を飲むために腹に入れるだけなので、味云々は問わなくていいだろうとイルカは諦めた。
しばらくうとうとしていると、おかゆを持ったカカシがやってきた。
見た目は普通のおかゆだ。もちろん具は何も入ってない。
「カカシ先生。そういえば、台所には何もなかったでしょう?」
イルカが尋ねると、カカシは笑顔で答えた。
「大丈夫ですよ。冷蔵庫にトマトケチャップがありましたから」
トマトケチャップ。もしかしてそれがこのおかゆに入っているんだろうか。
え、なんで?
熱で自分の理解力が足りないのかとイルカは呆然とした。
料理に慣れていないカカシは、とりあえず栄養価があれば何でもいいと思ったのかもしれない。
気分が沈んでいくのは、何も風邪のせいだけではないだろう。イルカは、できれば口にしたくないという想いでいっぱいだった。
「おかゆも食べられないくらい具合悪いですか?」
躊躇っているのは具合が悪いせいではないのだが、イルカは口をつぐんだ。
カカシの心配そうな表情を見てしまったら、食べるのはどうにも断れそうにない。なんといっても病気を案じて努力してくれたのだ。それを無碍にするなんて、イルカには到底できなかった。
大丈夫。戦場ではもっと過酷な食生活を送っていたじゃないか。イルカはこれくらい何てことはない、と心の中で唱え続けた。
「いただきます」
意を決しておかゆを匙ですくって口に運ぶ。
「お、美味しい……」
「そうですか! よかった」
意外や意外。どんな味かと思いきや、おかゆは普通に美味しかった。
「ちゃんと出汁がきいてます。……どうして?」
何もなかったはずなのに、とイルカは首を傾げた。
「だから、トマトケチャップを使ったって言ったじゃないですかー」
「え、ホントに!?」
「50倍に薄めて使うと出汁代わりになるんですよ」
カカシの知識にイルカは驚いた。
「どうしてそんなこと知ってるんですか。普段は料理しないのに」
「あー。俺の先生がね、奥さんが作ったトマトケチャップのスープを飲んで考案したらしくて。俺にもぜひ使いなさいって言ってたんですけど……なかなか機会がなくて」
だいたい料理しないとトマトケチャップ自体も買わないし、とカカシは笑った。
「四代目が?」
「なんでも最初は奥さんのいたずらだったらしいんですけどね」
「へぇ。すごいな」
イルカは感心した。いたずらのスープを飲み切って、さらにそれを活用しようと考えるなんて、さすが火影にまでなる人は発想が違う。
「食べ終わったから薬を飲みましょう」
いつの間にかイルカはおかゆを食べ切っていて、カカシの勧めるまま処方された薬を飲んだ。
「明日も一日休みを貰ったから、早く治して明日は俺と休みを満喫しましょうよ〜」
なにやら張り切っていると思ったら、そんな計画があったのかとイルカは呆れる。
が、早く治ったならそれもいいかなと思いながら、眠りに身を任せるイルカだった。