帰らざる帰還


「ねぇ、イルカ先生。俺、必ず此処に帰ってくるから。約束だよ?」



約束を破ったら、あなたは怒るだろうか。
そう。きっと怒るだろうね。
ごめんね。
霞んできて碌に見えない眼をゆっくりと閉じる。
もう、どう足掻いても立ち上がれそうにない。
大きな樹の幹に背を預けて座っているのが精一杯だ。
空気を求めている肺は、穴の開いた喉に阻まれて望むものを充分に与えられずにいる。
任務の際に予想外のことが起きるのは世の常で、突然襲われてこのざまだ。
締まらないな。
それでも他の連中は無事に逃がし敵も全滅させたから、任務については後から挽回できるはず。
ただ約束が。
それだけが気がかりだ。
怒ってもいい。責めてくれてもいい。
ただ、泣かれるのだけは困る。笑っていて欲しいと、どうしようもなく願う。
ごめんね。
俺はいつも嘘つきで役立たずの大馬鹿野郎だ。
約束も守れない、こんな俺があなたに遺せるものはたった一つだけ。
あなたを愛しているという想い。
ただそれだけだ。
辺りは噎せかえるほどの血の匂い。火遁で焼け焦げた樹の匂い。
抉れた土塊。散らばる死体。
此処にはそんなものしかない。
カチン。
こんな場所には似つかわしくないほどの涼やかな音。
なにか固いものが地面に当たったのだと思いあたり、その存在を思い出す。
あの人の家の鍵。
いや、もうあの家は俺の家でもあった。二人の家。
『同じ鍵は、いつでも同じ所に帰る約束みたいでしょう』
そう微笑んで渡された鍵だった。
誰かがそう言っていたのだと、真似事ですけどねと、恥ずかしそうに笑っていたっけ。
震える手で拾い上げる。
帰りたい。帰りたいよ。
もう一度あなたに会いたい。
固くて冷たいはずの約束の証は、暖かさすら感じた。まるであの人のように。
何よりも愛おしいそれに、息を吸うことも儘ならない唇をそっと口づけた。
「今。……今帰るよ」
今日はアカデミーは休みだったはずだ。
もしかしたら庭で昼寝をしているかもしれない。あの家の光あふれる庭で。
近づくと目を覚まして立ち上がり、いつもの笑顔で迎えてくれるだろう。
『お帰りなさい』と。
「…た…だいま……」
広げられた腕に抱きしめられる。
その瞬間がとても。とても好きだ。






庭の柵扉が開く音。
それで目が覚めた。
どうやらうたた寝していたらしい。
晴れた日は庭で食べましょうよ、とあの人がどこからか買ってきた木目のテーブルと椅子。
あまりにも陽射しが暖かくて、ついテーブルに突っ伏して寝てしまっていた。
音がした方を見遣ると、やはりあの人だった。
帰ってきたんだ。
予定の帰還日にはまだほんの少し早いけれど、きっとまた急いで帰ってきたに決まっている。
「お帰りなさい」
いつものように抱きしめようと腕を広げた。
なんでもない出迎えを、いつもそれはそれは嬉しそうに顔を綻ばせる。
どうして、と聞くと『だって約束でしょ』と言う。
同じ所に帰るという約束。
それを果たすためだけに生きてる気がします、などと言う。
酷く希薄な存在に不安になる。
帰らない刻を待つのは苦手だ。
怪我をしていないか、苦しんでいないか、潰れそうになるほど胸が痛む。
だから帰ってきたときは、本当によかったと心から安堵する。
『ただいま』と。
その言葉に、わけもわからずに泣きたくなった。
いつもと変わらない帰還なのに、自分でも可笑しいと思う。
少し声が掠れている気がしたからかもしれない。
怪我をしている可能性はある。痛みを堪えているのかも。
でも今は此処にいる、目の前に。
此処にいるから大丈夫だ。
そう自分に言い聞かせ、更に腕を伸ばした。
抱きしめる瞬間に微笑むその姿がとても。とても好きだ。






『ただいま』
そう言ってたしかに此処に帰ってきたはずなのに。
手を伸ばして触れようとした瞬間に、その姿は幻のように消え失せ、あの人の匂いだけが微かに残された。
夢だったのだろうかと思った。
心配するあまりに見てしまった夢。そうかもしれない。
けれど、どうしようもなく本物のような気がした。実際に目の前に存在した。
自分でも迎えるために立ち上がっていたのだから。
不思議な体験だった。
何か術を使ったのかどうか、あの人が帰ってきたら聞いてみようかと思った。
それが叶うことは決してないことを知ったのは、それから数日後。
発見された遺体は幸せそうに微笑んでいた、と人づてに聞いた。
酷い話だ。
あれで約束を守ったと思っているのだから。
必ず帰ってくる、というのはあんな意味じゃなかった。
決してあんな意味じゃなかった。
「嘘つき」
詐欺じゃないか。
あんな子供騙しで誤魔化して、俺を一人置いていくなんて。
今さら俺にあなたなしで生きていけというのか。
『俺は必ず此処に帰ってくるけど。もしも、もしもだよ?俺がいなくてもあなたには笑っていて欲しいなぁ』
無茶苦茶だ。
そんなことばかり言って。
嘘つきで、肝心なときに側にいなくて、酷い人。
そんなどうしようもない人だけど、誰よりも誰よりも好きだったのに。
いなくなってしまった。
わかってる。
それでも生きていかなければならないことぐらい。
どんなに悲しくても腹は減り、どんなに辛くても心臓は止まらない。
たとえ身体の一部がもぎ取られただけでは死なないように。
心に穴が開いたまま生きていかねばならない。
ちゃんとわかってるから。
明日になればちゃんと笑うから。
だから今は、今だけは許してほしい。
涙が止まらない自分を。
お願いだから。
明日はきっと。




「イルカ。これ、お前ん家の鍵だろう」
手渡された鍵は、本当にそうであるかすら判別不能だった。
ベットリとこびりついた血が、どす黒く乾いていたから。
けれど、きっとアスマ先生がそう言うのだからそうなのだろう。
きっとあの人が持っていたのだろう。
「捨ててください」
「いいのか」
「もう要らないんです」
もう約束が果たされることはない。
同じ所に帰る人はもういない。
もういないんだ。
「使わないなら、一緒に燃やして空に送ってやれよ」
「空に?」
「あいつもきっと持って行きたいだろう。最期まで握りしめていたしな」
「……はい」
胸が詰まった。
やはりあの人は約束を守った。
嘘つきじゃなかった。
約束通り帰ってきた。いつものように微笑みながら。
果たされた約束の証。
「不思議ですね。もう、笑っている顔しか思い出せない」
いつも笑ったり怒ったり不貞腐れたり、時には泣いて。
なのに、今は笑っている顔しか思い浮かばない。
「そういうもんだろ。あいつもそう望んでいるはずだ」
「そうですか?ちょっと狡いですよね」
「まあ、そう言うな」
頭をくしゃりと掻き回された。
じわりと滲んでくる涙をごしごしと拭い、口の嘴を吊り上げる。
大丈夫。まだ笑える。
何度も何度も心の中でそう唱えた。
唱え続ける間もまだ涙は滲んでくるけれど。
大丈夫。まだ立っていられる。
約束は守られたから。
あの人は帰ってきたから泣くことはない。泣く必要なんてない。
ちゃんと『お帰りなさい』と伝えられてよかった。
一人寂しく逝ってしまわなくてよかった。
そう考えて、細くかすかな息をゆっくりと吐き出した。


鍵は一筋の煙と共に、空に昇っていきました。




END
2003.05.02
*Kさんへ捧げます*



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