今日も明日もあさっても

カカシ先生とは、受付業務のときには必ずと言っていいほど会うことが多い。その度に聞かれることもたいがい決まっている。
「イルカ先生、今日の夜はお暇ですか?」
「いいえ」
「明日は?」
「いいえ」
「あー、じゃああさっては?」
「さあ、どうでしょう?」
報告書を確認しながら返事をしていると、なんだか周りの視線が痛い。上忍の誘いを断る中忍というのは非難や奇異を含んだ目で見られるからだ。
「はい、問題ありません。お疲れさまでした」
笑顔でそう言うと、とりつくしまもないと思ったのか、カカシ先生はあっさりと『どーも』と呟いて去っていく。その後ろ姿を見送る暇もなく、報告書を提出する人間がまだまだ並んでいた。
こんな夕方の混雑に対応していると時間があっという間に過ぎさり、家へ帰ることができる時間になる。帰り支度を始めた俺に、同僚が声を掛けてきた。
「イルカ。この前頼んでおいた書類、できてるか?」
「あっ」
そういえば頼まれた、ような気がする。そう言われてみればかすかに記憶がある。すっかり忘れていたけれど。
「なんだよ。最近忘れっぽいぞ、お前」
「ごめん。悪かったよ」
最近物忘れが酷くなってきている。きちんとやるべきことはメモしておかなくては、と決意する。この決意も忘れなければ良いんだけど。
「いいけどさ。それよりも、なぁ、イルカ……」
「何?」
さっきの用事は単なるついでで、こっちの方が本題らしいと口ごもっている同僚を見て気づいた。
「……いいのかよ、はたけ上忍の誘いをずーっと断ったりしてさ。あからさまじゃないか?」
やっぱりその話題か、と思った。
「そんなこと言ったって……あれだけ言っても誘ってくるあの人もあの人だよ。断らざるを得ないだろ」
「あれじゃないか。断られるから誘うんじゃねぇ?ほら、きっと断られたことがないから物珍しいんだよ。いっぺん一緒についていけばもう誘われないさ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。今度行きますって言ってみれば?」
きっと同僚なりに俺のことを心配してくれているだろうということはわかっていた。その気持ちは本当にありがたいと思う。しかし、その提案に頷くことはできなかった。
「うーん、考えとく。じゃあ、悪いけどお先に」
「ああ、お疲れー」
適当な返事をして、受付所を後にした。


外に出ると、もう一番星が出ていた。
門にさしかかるとずっと待っていたであろう人影が見える。それも最近ではよくあることだった。
「イルカ先生、仕事終わりました?」
「カカシ先生」
「今から夕飯を食べに行きませんか?」
「いいですよ」
肯定の返事をすると、嬉しそうに笑って『今日はあっちの店に行きましょうか』なんて言いながら歩き出す。俺は足早にカカシ先生に追いついて、並んで歩いた。
「なんででしょうね」
「何がですか?」
「受付じゃあけんもほろろに断るくせに、ここで待っていて断られたことはないでしょ?不思議だなぁと思って」
わざわざ俺の顔を覗き込んでくるカカシ先生。その瞳の色になんだかドキドキする。
たしかに言われたことに間違いはない。今から行きましょうと言われて断ったことなどなかった。
「だって……」
「だって?」
「受付で返事をしたら、約束になるでしょう?」
「約束になったら駄目ですか」
「約束は嫌いです」
守れないかもしれない約束は嫌い。明日の約束なんてしたくないんだ。たとえ二時間後だって先のことはわからない。そんな約束ならしない方がいい。
「約束は守りますよ。やだなぁ、ナルトが変なこと言ったんでしょ。遅刻するとかなんとか」
「違います。約束を守らないのはカカシ先生じゃなくて、俺ですよ」
「イルカ先生が?」
「はい」
それっきり口をつぐんだ。これ以上理由を言うつもりはない。そう考えているが伝わったのか、カカシ先生は俺をじっと見つめたまま追求してこなかった。少しだけ安心した。
「それじゃあ、とりあえず今日は飲みましょうか」
「いえ、お酒は飲みませんから」
「えー、イルカ先生つきあい悪いですよ」
カカシ先生は不満そうな口調とはうらはらに笑っていた。そんな姿を見て、またドキドキする。いつもそうだ。いつだってそうなんだ、俺は。
だってカカシ先生が好きだから。
初めて会ったその時から好きだった。
好きな人に見つめられたり、笑顔を見せられたら、心臓が張り切って全身に血液を送り出してしまうのも仕方ないことだ。
誘われるのだって本当は嬉しい。受付所だろうがアカデミーの職員室だろうが、喜んで『はい』と返事をしたい。
けれどそんなことはできなかった。そうすることによってカカシ先生に変な期待をさせてはいけない。好意を持たれているのはわかっているけれど、それがどんな類の好意かはよくわからないし、ただの気まぐれかもしれない。その真剣な眼差しが、もしかしたら本気なのかもしれないと思うことはあるけれど。
しかし結局どっちにしても俺に応えることはできないのだ。
それでも目の前で誘われると嬉しくなり、一緒にいたい気持ちも相俟って、『行きます』などと言ってしまう。
このままでは良くないと思い、明日からはもう決して顔も見ない、口もきかないことにしようと心に固く誓った。



二人でよく行く居酒屋で、アルコールはなしでただひたすら食べるのみ。端から見ればおかしな光景だったろうが、それでも俺にとっては楽しいひとときだった。
「イルカ先生、少し痩せました?」
「そうですか?」
「ええ。ずっと見ている俺を舐めちゃいけませんよ。前から比べると痩せました。ちゃんと食べてますか?」
自分のことを見てくれているんだと思うと、すごく嬉しい。でも駄目だ。
「食べてます。大丈夫ですよ」
笑って誤魔化しても、まだ不審げな視線を送ってくる。
それでもカカシ先生は無理に聞こうとはしなかった。そういう礼儀正しいところも好きだ。そんなことを考えながら卓の上に乗っている皿を空にすることに専念した。
たいして時間もかからない食事が終わって店を出る。それから家まで送ってくれるのはいつも通りだ。
並んで歩いていると、ふとカカシ先生が足を止める。
つられて足を止めると、カカシ先生は口布をすっと降ろした。きっと大事な話があるんだ。
「イルカ先生、好きですよ。俺と付き合ってください」
ああ、やっぱり。
告白されてしまった。本当ならば何よりも嬉しい言葉だけど。
「すみません、それはできません」
落胆した表情のカカシ先生に心が痛む。けれど仕方がない。
「理由を教えてください」
まっすぐに見つめてくる瞳に、心臓は激しく動揺したかのように早鐘を打つ。
もうこの素顔を見られるのも今日で最後だと思うと泣きそうになる。最後だからきちんと自分のことを話すべきだとも思った。
一度だけ深呼吸して、思いきって口を開いた。
「俺はもうすぐ死ぬんです」
「え?」
「実は以前任務のときに頭部を強打したのが原因で、脳に腫瘍ができているんです。腫瘍はだんだん大きくなって脳を圧迫して、いずれは死に至ります。もうすでに腫瘍のせいで記憶障害も出てきているんです。教師はもうすぐ終わりです。迷惑はかけられませんから。でも、良かったと思っています。ナルトも卒業できたし、思い残すことはありません」
何を言われているのかよくわからない、といった表情のカカシ先生に、自分が言うべきことをすべて言った。
約束が嫌いなのは自分がいつ死ぬかわからないからだ。もちろん医者はもうあとどれくらいでと予測するけれど、それが必ずしも正確とは限らない。守らないまま死ぬのは嫌だった。
「だからカカシ先生とはお付き合いできないんです」
カカシ先生の反応をじっと待つ。
もうこれで俺のことを好きだなんて言うわけがない。死んでゆくとわかっている人間に好きなんて。
そのとき、黙り込んでいたカカシ先生が口を開いた。
「よかった。俺のことが嫌いな訳じゃなかったんだ」
「え?」
「いや、なんか微妙に避けられたりしてたから、もしかして嫌われてるのかな、と心配だったんですよ」
そう言って笑った。
「どうしてよかった、なんて言えるんですか」
どうして?
「よかったと思いますよ、ギリギリ間に合って。あなたがまだ自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分で判断できる状態の時に出会えてよかった」
「カカシ先生……」
「だってそうでしょう?まだ死ぬまで時間はあるんだから。だから俺のこと好きになって」
好きだよ。もう今更言われるまでもなく好きなんだよ。
どうして死んでいく俺なんかにかまうんだ。
どうして死んでいく俺が好きだなんて言えるんだ。
たとえ俺のことが好きじゃなくても、親しい者が死ぬことで心を痛めることだってある。そんな些細な痛みさえ与えたくないと思うくらい好きなんだよ。
「ねえ、泣かないで。お願いだから」
自分が泣いていることすら気づかなかった。
「そんな悲しそうな顔、しないで。まるで俺が傷つけたみたいじゃあないですか。泣かないでよ」
少し困ったように笑う。
「駄目ですか?俺のことは泣くほど嫌い?」
どうしてそんなことを言うんだ。
そんなわけない。そんなことで泣いているんじゃない。
「だって嫌なんです。たとえ今付き合ったとして、俺が死んだときあなたが傷つかないという保証はあるんですか」
「どうして?俺は今あなたに好きって言ってもらえない方が傷つくよ。死ぬ死ぬってあなたは言うけど、そんなの俺だって何時任務で死ぬかわからないんだよ?」
衝撃を受けた。
それはそうだろう。だって里が誇る写輪眼のカカシだ。任務で死に至る可能性なんて山程ある。
今まで大丈夫だったからといって、これからもカカシ先生が死ぬことなどないというのは俺の勝手な思いこみに過ぎない。
そんなことも気づかなかったなんて。呆れるのを通り越して笑える。
それと同時に背筋が寒くなった。
この人が死んでしまったらどうしよう。
今まで自分が死ぬことしか考えていなかったけれど、もし先に死なれてしまったらどうしたらいいんだろう。
ものすごい恐怖だった。
俺にとっては些細な痛みどころの話じゃないのに。
「俺はあなたが死ぬって聞いても諦めることなんてできないくらい、イルカ先生が好きですよ」
「そんなの信じられません」
信じられるわけがない。
「じゃあイルカ先生は、俺が明日必ず死ぬ任務に就くと聞いたら、諦めるんですか」
「いいえ、いいえ!いやっ…嫌です」
意外な問いに、聞き分けのない子供のようにただ嫌だとしか言えず、ぼろぼろと涙が溢れた。
「ほらね」
そんな俺を見て、カカシ先生はまるで勝ち誇ったように笑った。
俺の完敗だった。



手を繋いで歩きながらカカシ先生は言う。
「俺ね、好きな人しか相手にしないんですよ。だっていつ果てるかわからない人生で、どうでもいい奴のために貴重な時間を割くのは勿体ないでしょう?」
カカシ先生はいつも本当のことしか言わない。
俺もそう思う。人間は好きな人を想うためだけに生きているのかもしれない。
本当は頭のどこかでわかっていた。カカシ先生がいつか任務で命を落とすかもしれないってこと。
だから医者に告知された時は、自分が先に死ねると知って喜んだんだ。
だってそうじゃないか。
父も母も俺を置いてさっさと行ってしまった。俺をたった一人残して行ってしまったんだから。
もう置いていかれるのは嫌だった。
だから先に死んでしまえば置いていかれることはないと思ったんだ。
でも。
「俺は、先に死んでしまってイルカ先生のいない天国へ行くくらいなら、魂となってあなたの側を漂う方がいいな」
「それじゃあ、俺が先に死んで天国で待っていなくてはいけませんね」
「イルカ先生が先に死んでしまうのは嫌です。俺が先の方が絶対いい」
「そんなことは神様だけがご存じですよ」
今は心が凪いでいる。こんな会話をしても穏やかな気持ちでいられる。
もう怖くはなくなっていた。
できればこの世に一人残されて悲しむのは、自分であったらいいとすら思った。目の前の人が悲しむことのないように。
そんな願いを込めて、今触れている手をぎゅっと握りしめると、ちゃんと握り返されたことが嬉しかった。



今日も明日もあさっても。
一緒に泣いて。
一緒に怒って。
一緒に笑って。
今日も明日もあさっても。
命ある限り。いや、命が尽きても共にあると信じたい。
今日も明日もあさっても。
この人をどうしようもなく好きで愛しているのは変わらない。
今日も明日もあさっても。
貴方と一緒に。
いつまでもきっと。
やさしく生きて、そして愛して。




END
2004.09.04
*Aさんへ捧げます*



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