ゆうれいになった男の話



先輩が死んだ。


その知らせを受けたのは、僕が里を遠く離れていた時だった。
何の冗談かと思ったが、それは冗談でも何でもなくただの事実だったと里へ帰還してから知る。
事実をまだ受け入れられないまま葬儀はしめやかに行われた。
亡くなった時の詳しい経緯は機密とやらで教えてもらえなかった。そこは忍びだから当然である。ただ新人の誰かを庇ったらしいとだけ聞いた。
なんだかんだ言って面倒見の良い先輩らしい。会場に飾られた大きな遺影を見つつ思った。
葬儀は知り合いもそうでない人間も多く参列していたが、その中でひときわ目立っていたのが先輩の恋人だった。
もちろん服装が派手だったとかそういうことではない。格好は標準的な喪服だった。涙を堪えて立つ姿は痛ましくも健気で、周りもなかなか声を掛けることができずにいた。口をへの字に引き結んだナルトが、親子か兄弟のように側に寄り添っていた。
「このたびは……」
「ヤマトさん」
なんと声を掛けてよいか分からず言葉を濁すと、イルカ先生の目の縁に溜まっていた涙がほろりと溢れ落ちた。まるで綺麗な宝石のように。
「す、すみませ…っ」
涙をこぼす自分をみっともないと思っているのか、イルカ先生が言葉を詰まらせて謝る。そっと白いハンカチを差し出すと、無理に微笑もうとして歪んだ唇が震えていた。
その姿を見続けるのは辛かったが、どうしても目を離せない。胸が痛かった。
出会った時からずっと好きで、けれど尊敬する先輩の恋人に告白する勇気も度胸もなかった。ただ幸せであってほしいと願ったはずだったのに。
愛する人を失ったイルカ先生の悲しみを前に、自分はどうしようもなく無力だった。



「イルカ先生、もうアカデミーに出てるってばよ」
ナルトの言葉に安堵しつつ、本当に元気を取り戻したのだろうかと心配になる。
あの人は他人に弱っているところを見せるのを厭う人だから、もっと内に籠もってしまうのではないか。
考え始めると最悪の事態まで想像して困る。仕事にも集中できず散漫になってしまう。
思いきって実際に会いに行こうと決めた。
アカデミーの職員室へと向かう途中、ある人に呼び止められ、予定を変更してイルカ先生の家へと足を運んだ。
「火影さまから預かった書類です」
訪ねていくと、思ったよりも元気そうな姿にホッとする。見る限り普段と変わりなく、無理している様子はない。
ああよかった。辛い顔は見たくない。
「すみません! 俺が自分で取りに行ったのに。ヤマトさんみたいに忙しい人にこんなお遣いをしてもらうなんて……」
「いえいえ、ついでですから」
というか、ただの口実だ。
それを申し訳ないと恐縮されてしまうと、罪悪感がじわじわと首を締め付ける。
「そうだ! お茶でも飲んでいってください」
どうぞ上がって、と勧められた。
「いえ、僕は……」
カカシ先輩の許可がないと家には上がれないんですよ、と断りかけて口ごもった。
そう、その先輩はもう居ないのだった。
先輩が留守の時に決して家に上がってはいけない、というのは先輩を知る者ならば肝に銘じておく重要事項で。それを破った人間が酷い目に遭うのは、都市伝説でもなんでもないただの事実だった。
こんなことすら懐かしく思う日が来るなんて。
じわりと目頭が熱くなるのを感じ、慌てて頭を振り払った。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
少しだけなら、お茶を飲むくらいならいいだろう。友人の範囲内だ。
「貰ったおまんじゅうがあるんですよ。ちょっと待っててくださいね」
「おかまいなく」
ぱたぱたと台所へと向かうイルカ先生の後ろ姿を微笑ましく眺めた。
本当に元気そうでよかった。
そう思っていると、ふと気配を感じる。
ぞわりと背筋に寒気が走り、慌てて振り返った。
「なに上がり込んでるの」
「え」
「言ったよね、俺。許可無く勝手に家に上がるなって」
「ええっ」
「テンゾウ。まったくお前ってやつは」
「えええええええええ!」
それはどう見ても死んだはずの先輩だった。



呆然だった。
なぜ、どうして?と言いたいのに、口はぱくぱくと動くだけでなかなか声になってくれない。
「どうしました?」
イルカ先生が台所から駆け寄ってくる。
心配そうに顰められた眉や覗き込んでくる瞳は、いまだかつてないほど近い。近すぎる。
こんな近くに居て落ち着いていられる方がおかしい。僕の心臓にもっと働けと言っているに違いない。顔に血が集まっていく。
だが、今はそんなことを言っている場合じゃなかった。
「あっ、あの、これは……!」
「はい?」
先輩を指差して説明を求めたが、どうやら通じてないらしい。
「ああ、そうだテンゾウ。俺、ゆうれいになったみたいだから」
先輩があっさりと言った。突然の爆弾宣言。
えええええ。
衝撃の事実にふたたび叫びそうになり、イルカ先生の視線を感じてかろうじて踏みとどまった。みっともない姿は見せられない。
「大丈夫ですか?」
心配そうな声はゆるぎなく僕に向いている。
これは。
もしかして、もしかしなくてもイルカ先生には先輩が見えていない。声さえ聞こえていないらしい。
目の前でこんなにもはっきりと見えるのに。
「イルカ先生に俺のことは言うな」
もし言ったら許さないという空気が先輩からビシビシ伝わってくる。
そしてイルカ先生からは僕の返事を促す視線が。
前門の虎、後門の狼だ。この場合逆か? 前門の狼、後門の虎?
いや、そこは今問題じゃない。
先輩のことを話題に出さずにさっきの叫び声を誤魔化せという。なんという難易度の高い任務だ。いまだかつて経験したことがないくらい難しい。
頬が引き攣る。
「あ、いえ、すみません。疲れが溜まると奇声を発することがあるみたいで……」
どういう言い訳だ、と自分でも思った。
こんな理由を信じてもらえるわけがない、と。
が、幸いと言うべきか、素直なイルカ先生はそれを信じた。
心配だと感情を瞳に滲ませ、椅子に座ってくださいと労られる。
「今すぐお茶を入れますから」
「いえ、ほんとうに、おかまいな…く……」
すぐ隣から威嚇の足踏みの音が聞こえる。だから正直帰りたい。
ああ、でもせっかくイルカ先生がお茶を入れてくれるというチャンスを逃すわけにも。ジレンマだ。
「お前、もう帰れ」
「せめて状況を把握してから……」
そうすれば今後の対策も練られるし、イルカ先生のお茶も飲める。一石二鳥だ。
「状況って言ってもね……気がついたらもう死んでてここに居たってだけで」
さすがの先輩も超常現象を説明することはできないらしい。そうかもしれない、一介の人間がすべての出来事を理解できると思うのはおこがましいことだ。不思議な現象もただ受け入れるしかない。
「そういえば、イルカ先生にこのことを伝えないんですか?」
「イルカ先生には知らせたくないんだ、俺がこうなってるってこと」
「なぜ?」
「イルカ先生には俺の姿は見えないし、声も聞こえない。俺から触ることもできない。だから俺がゆうれいになったって知ったって、苦しむだけじゃないか」
側に居ることを感じることすらできないのなら、知らない方がきっといい。先輩はそう言う。
言いたいことは分かる。でも本当にそうだろうか。
今の僕には判断が付かない。
なので、とりあえず先輩の希望に従うことにした。
「普段はどうしてるんですか」
葬儀から今まで、先輩の姿を見たことはない。毎日どうしているんだろうと思ったからだ。
「イルカ先生が出勤したら、帰ってくるまでぼんやりしてるかなぁ」
やることないし、と有能な忍びだった人が言う。
「ぼんやりって、昼間はここに居るってことですか? 外に出たりしないんですか?」
「いや。この家は出てない。というか、出られないみたいなんだよね」
「えっ」
てっきりイルカ先生に憑いているのだろうと思っていた。
「なんでだろうねぇ。どうせだったらイルカ先生に憑きたかったのに!」
場所が限定されるということは地縛霊?
謎だ。
そうこうしているうちに、イルカ先生がお盆を抱えて戻ってくる。
「お待たせしました。粗茶ですが」
「ありがとうございます」
お茶請けには先ほど言っていたおまんじゅうだ。
イルカ先生は自分の分も食卓に置いて、向かい側に座った。
おまんじゅうにかぶりつき、僕がまだ手をつけていないのを見ると、僕の分のおまんじゅうを手に取った。
「ほら、美味しいですよ?」
とおまんじゅうを差し出して、笑顔を惜しみなく晒す。
胸がほわんと温かくなると同時に、顔がかぁーっと赤くなるのを感じた。
もしかしてこれを手から直接食べろということか!
「おい。イルカ先生に触るな。しゃべるな。見るんじゃない!」
先輩がビシリと僕を指差した。自分が触れないのに後輩のお前が触るなんて許されないだろう、と言うのだ。
そんな無茶な。
「ああっ、悔しい! 俺にこの空間に影響を及ぼす腕があれば、お前をギッタギタにしてやるのに! もう瞬殺だね」
なんだ、この子供は。
先輩ってこんな人だったっけ。
僕の記憶の中の先輩は、もっと頭が切れて賢くて誰よりも強くて孤高の人だったはずでは。
ゆうれいって性格まで変わってしまうものなんだろうか。
僕はひそかに溜息をついた。



先輩の機嫌が悪いので、帰るべきだと分かってはいたけれど、イルカ先生からナルトの様子を尋ねられると無下に断るわけにもいかなかった。
この前の任務の時はああだったこうだったと周りの状況を交えて話すと、興味深げに耳を傾け、いつもと変わらない表情で頷く。
それが嬉しくてついつい調子に乗ってしまったのだ。
「それで、この前カカシ先輩が……」
あ。
不用意に触れた名前は、イルカ先生の笑顔をみるみる強ばらせた。
なんでこの話題を選んでしまったんだ、僕は。馬鹿か。阿呆か。最悪だ。
普段通りを装ってみても悲しみから遠ざかったわけではない。無理をしていると分かっていたはずなのに。
「まだぜんぜん実感が湧かなくて……本当は遠い地へ任務に行っていて、ひょっこり帰ってくるんじゃないかって思ったりもするんです」
「わかります」
僕もぜんぜん実感湧きません。
「何がわかるだよ、テンゾウ。イルカ先生の気を惹くために言ってるんじゃないよ」
ふざけんなよ、と先輩が言った。
いえ、本気です。本気で実感が湧かないんです。だって目の前に居るし。あまつさえ罵られてるし。これで死んだって言われてもね。
心の中でこっそり付け加えた投げやりな言葉は、イルカ先生には聞こえない。僕の同意を言葉通り受け止めたイルカ先生は微笑んで応えようとしたが、うまくいかず、じわりと瞳に涙が溜る。そしてついにダムは決壊して涙が溢れ落ちていく。
ほろほろと落ちていく涙を前に、僕は無力だ。
掛ける言葉さえ見つからず、ただ見つめるだけ。
その時、先輩が動いた。
「泣かないで、イルカ先生」
先輩はイルカ先生に触れようとしたが、できなかった。
ゆうれいの手は現実の物を掴めない。通り抜けてしまう。本当に触れることはできないのだと知った。
それでも先輩はイルカ先生を慰めようと根気よく手を伸ばした。影絵をするように繊細に頬に手を添えたまま瞼に口づける。
しばらくそうしているうちに、イルカ先生の涙は止まっていた。



それ以来、たびたびイルカ先生の家を訪ねるようになった。
先輩がどうしているか気になって、というのはもちろん事実だったが、それがすべての理由ではない。イルカ先生のことが心配だったし、少しでも交流が深まって僕の印象が良くなればという気持ちもあった。
ナルトも恩師を心配していて、暇があればイルカ先生の家に立ち寄り、泊まることもしばしばあった。
尋ねてみたところ、ナルトは先輩がゆうれいになったことを知らなかった。自分に霊感があると思ったことは今まで一度もないけれど、ああいうものは見ることができる人間とできない人間に別れるのかもしれない。
一番会いたいと願うであろうイルカ先生やナルトがゆうれいを見られないのは、皮肉なことだと思う。しかし、これが現実で。実際に家に訪ねてくる人間はほとんどおらず、その上地縛霊とくれば僕以外知る人は居ない。言いふらす気もない。
たぶんそれでいいのだと思う。
というか、ゆうれいって成仏しないものなんだろうか。いつイルカ先生の家を訪ねても先輩が居る。どうして訪ねてきたと睨まれ、不機嫌な声で応対され隙あらば追い払おうとする。
「お前さ、どうして来るの。もう来るなって言ったでしょ。帰れよ」
きっと僕の気持ちは見透かされている。分かりやすいのかもしれない。当のイルカ先生にはまったく気づいてもらえないが。
それでも家へと足を運ぶのは、やはりイルカ先生に会いたい気持ちが勝るからだ。
日に日に元気を取り戻していくイルカ先生に会うのは楽しい。笑顔を見ると胸が高鳴り、僕が守ってあげたいと願う。できたら恋人として。
不可能ではない気がする。僕が訪ねる度にイルカ先生は笑ってくれるし。イルカ先生にとって先輩は過去のことになっていくはずだ。側に居てもどうせ逢えない人なのだから。
そんな時、ナルトからある話を聞いた。
任務で一緒になってふと出た話。ナルトがイルカ先生の家に泊まった時の話だ。
早朝、ナルトがふと目を覚ますと、イルカ先生は味噌汁を作っていたのだと言う。
ただの朝食の準備だとナルトは思っていた。
けれどお椀によそわれ仏壇に運ばれていく味噌汁を見て、そうではないと知った。
湯気が立ち上るお椀を前に、イルカ先生はしばらく手を合わせる。声を掛けるのも躊躇われ、それをナルトはじっと見ていた。
「毎朝、カカシ先生に味噌汁作ってるの?」
「そうだよ」
「どうして?」
「本当は仏壇に供えるのはちょっと意味が違うのかもしれないけど、でもカカシ先生が好きだったお味噌汁を飲んでもらえたら嬉しいなと思ってね」
イルカ先生はそう言ってはにかんで笑ったのだそうだ。
それはある意味衝撃的な話だった。イルカ先生は先輩を忘れるどころか日常に組み込んでいこうとしている。ただの儀式になって形骸化すればいいけれど、そうではなかったら?と思った。



自分の考えにぞっとした僕は、慌ててイルカ先生の家へと走った。
まだ昼日中なのでイルカ先生はアカデミーであり、先輩とゆっくり話ができる。この時間帯を選んだのは正解だ。
さすがに家の中に入り込むのは犯罪であるため、そっと窓の鍵を開ける。後で戻しておけば気づかれないはずだ。
「また来たの、お前」
先輩が迷惑そうな顔をする。今ではもう慣れっこだ。
いえ、嘘です。死ぬほど努力をして無視してます。本当は心が折れそうです。
若輩の頃にすり込まれた『先輩は絶対、神』の暗部の掟にはなかなか逆らえない。
しかし。誰彼かまわず嫉妬をして威嚇する、そんな先輩に抵抗できなくては明日はないのだ。負けてはいられない。
「先輩はいつ成仏されるのでしょうか」
おそるおそる聞いてみる。
「成仏? するわけないじゃん。イルカ先生が死ぬまで側に居て、一緒に極楽へ行くのが目標なんだから」
ええー、忍びが極楽って……その発想はどうなんだろう。
というか、一生憑いているつもりなのか。
「イルカ先生の幸せも考えてあげてください。あの、ぼ、僕に任せてもらえたら必ず幸せに……」
勇気を振り絞って名乗りをあげたのだが。
「うるさいよっ。お前なんかにイルカ先生を幸せにできるもんか。テンゾーのくせに!」
理不尽すぎる。
僕であるという理由は納得がいかない。
しかし、先輩の中ではもっともな理由であると結論づけられているようで。とりつく島もなかった。
でも結局大事なのはイルカ先生の気持ちだ。
何度も通った成果か、最近のイルカ先生は打ち解けて親しい笑顔を向けてくれるようになったと僕は思っている。
地縛霊になった先輩はひとまず置いておいて、タイミングを見計らって告白しようと考えていた。



ある日。イルカ先生がアカデミーを休んでいると小耳に挟んだ。熱を出て寝込んでいるらしい。
ぜひ看病に行って株を上げたい。そういう不純な動機もあるけれど、純粋に心配でもある。
消化の良いものを作って食べてもらおうと思い、食料を買い込んで家へと向かった。
玄関の鍵は開いたままで不用心だったが、中へ入ってみるとイルカ先生は寝込んで起きる気配がなかっため、チャイムを鳴らして起こすよりはよかったのかもしれないと考え直した。
見ただけで熱があると分かるくらい赤い顔をしている。呼吸も不規則で苦しそうだった。
ベッドの脇では、何も出来ないで手をこまねいているカカシ先輩が見守っているだけ。イルカ先生に実際何かをしてあげられるのは自分だということに、ひそかに優越感があった。
食料を台所に運んで冷蔵庫へと仕舞い、タオルを濡らして寝室へと戻る。
声が聞こえた気がして、目が覚めたのかと思った。
「イルカ先生?」
けれどそれは勘違いで、熱にうなされた寝言のようだった。
もしかして意味のある言葉かと思い、僕は耳を寄せて聞き取ろうとした。
「カカ、シせ…んせ……」
それを聞いて思い知った。
先輩が死んでいようが生きていようが、僕の入り込む隙間なんてこれっぽっちもないのだと。
無意識の時に出てくる言葉が一番の本音。側に居てほしいのは、きっと先輩ただ一人だ。
そうだ、分かっていたはずじゃないか。
イルカ先生の気持ちが大事なのだ。僕がどれくらい想っているかはさほど重要ではない。何が幸せかを決めるのはイルカ先生自身に他ならない。
震えそうになる手を押さえ、そっと部屋を出た。イルカ先生に気づかれないうちに。
台所へ向かうと先輩が後ろをついてきていた。
氷を補充し、お粥を作って薬を飲ませてほしいと先輩が指示を出す。僕はそれに従った。
イルカ先生を起こすと、症状が悪化するのではないかと心配するくらい申し訳ないと恐縮していた。けれど、さすがに熱のせいで体力がなく、薬を飲んだ後はいつのまにかまた眠りについた。
さっきより呼吸が安定したイルカ先生を先輩と二人で見守っていたが、突然と先輩が口を開いた。
「あのさ。お前からイルカ先生に伝えて欲しいんだけどさ」
「……はい」
もう何だって伝えよう、一言一句間違わずに。そういう気になっていた。
それがお世話になった先輩への後輩の義務ってもんだ。
ずっと自分を忘れないで、とか。死にたくなかった、とか。何でも言いたいことは言うべきだ。
が、僕の予想は完全に外れた。
「毎日供えてくれる味噌汁は茄子じゃなくていいですよって」
「はい?」
伝えたいことが味噌汁の具ってどういうことだ。
「いや、だから。毎日毎日茄子ばっかりじゃ栄養偏らないか心配でさ。もっと違うものでもいいと思うんだよね。豆腐となめことか、じゃがいもとワカメとか、大根と油揚げとか、あさりとか! ほら、あるだろ、組み合わせは無限にさ!」
「ああー」
本気だった。
本気で先輩は心配しているのだ。恋人の食生活を。つまりはこの先生きていく健康だの何だのを。
「ははっ、あはははははは」
敵うはずがなかった。
結局はそういうことだ。
自分のことしか考えていなかった自分と、相手のことを想いやっていた先輩と、比較することすらおこがましい。
どうして勝てるなんて一瞬でも思ったんだろう。
「おい、何が可笑しいんだよ。失礼だな、お前」
先輩の目が剣呑になる。
「いえ。これは、ちょっと、自分の馬鹿さ加減が可笑しくてっ」
そうではないと伝えるにはちょっと呼吸が乱れすぎている。
先輩は睨んでいたが、結局何も言わなかった。
「今日はこれで帰ります」
玄関の戸を閉め、音が聞こえないであろう距離に来てから全速力で走る。
その日僕は失恋が確定し、泣いた。
敵わないというのは前から知っていたはずだ。先輩が生きていた頃から。
それでも好きだったんだ。本当に。本当に好きだったんだ!



翌日。
泣きすぎで目を腫らしたまま、イルカ先生に会いに行った。
風邪はおかげですっかり治ったというので、昨日来た甲斐があったというものだ。
「大丈夫ですか?」
イルカ先生がボテボテに腫れた瞼を心配そうに問う。
「ええ、大丈夫です」
心は大丈夫どころではなかったが、言ってしまって心配させることはしない。
どうせ結果が分かりきっているなら告白はしないと決めた。イルカ先生を困らせるくらいなら、告白しない方を僕は選ぶ。
「俺は不思議なことに、どんな辛いことや苦しいことがあっても家に帰って寝ちゃえば忘れちゃうんです。単純でしょう? でもヤマトさんはそういうわけにはいきませんよね」
僕のことを慰めようとしているのか、イルカ先生がそう言った。
それはきっとあなたの恋人が、頭を撫でたりキスしたり涙を拭おうと必死扱いてみたり、そりゃもういろいろやってるからですよ。それが伝わるから元気になれるんですよ。
二度と触れ合うこともなく、声を聞くことができなくても、きっと通じるものがあるのだ。
それを言うべきだと思った。
が、今はまだ失恋の痛手が大きすぎて言えない。
ごめんなさい、イルカ先生。
でもいつか言うよ、きっと。この痛みがもっと儚くなった頃にはきっと。
その頃だってゆうれいは側に居るはずだから。永遠にあなたを守っているはずだから。



END
2011.11.12 - 2011.12.03



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