【イルカ先生、猫に家出される】


 それは家に持ち帰った仕事に没頭しているとき。
 少し離れたところに置いてある物が必要だった。
 手を無理に伸ばせば自分で取れなくもなかったが、すぐ側にいる人に声をかければいいと思ったのはちょっとした無精だった。
「カカシ先生。すみませんが、そこにあるものさしを取ってください」
「これ?」
「はい、ありがとうございます」
 動かないままものさしが手に入り、気分良く作業に戻ろうとした。しかし、邪魔が入る。
「ねぇ、イルカ先生。『カカシ』って呼んでくださいよ」
「なんですか、いきなり。だからカカシ先生って呼んだでしょう?」
「そうじゃなくてー。呼び捨てにしてくださいって言ってるんですよぅ」
 今まで一人でぼんやりしていたくせに、急に声をかけられたせいで放っておかれるのが耐えられなくなったようだ。
 いつもの、かまってかまって病だ。呼び捨てにされたがるのはその確たる証拠。
 そりゃあ俺だってかまってあげたいのはやまやまだけど。今は仕事があってそれに集中したい。
「後でね」
 適当な返事をしながら書類を睨んでいると、『イルカ先生イルカ先生』と呼び声が止まらない。無視するが、集中できなくてケアレスミスも多くなる。
「ちょっと静かにしててくれませんか。うるさくて集中できないじゃないですか!」
 苛ついて、思わず強い口調で言い返してしまった。
「酷いっ。ずっと待ってるんだから、ちょっとぐらい相手してくれたっていいじゃないですか!」
「あとちょっと待っていたら終わるから、それまで待っててください」
「『ちょっと』っていったいどれくらいですか。いっつも『あとちょっと』『もう少し』って言って、すぐに終わった試しがないんだから」
 痛いところを突かれて言葉に詰まった。
 たしかにいつもそう言っているのは本当だ。でもそれは自分だってあと少しで終わると信じているからであって、わざとじゃない。不測の事態が起きて予想通りには終わらないからなのに。
「俺だってね、何も仕事を中断しろって言ってる訳じゃないですよ。ちょっと名前を呼んでほしいってお願いしてるだけでしょう?」
 名前を呼ぶだけで終わるならばいいけれど、一度かまうと際限がないから困る。それならば仕事を終わらせてから、と思ってしまうのも仕方ないではないか。
「だから、もう少しで終わりますから」
「そうじゃなくて! ……もういいです」
 拗ねてそっぽを向いた横顔をどうしようかと見つめていると、急にすっくと立ち上がった。
「俺、家出します」
「え」
「要求が通るまでは帰りません。じゃあね、イルカ先生」
 そう宣言すると、カカシ先生は身一つで玄関を出て行った。
 自分でもちょっと言い過ぎたかな、とは思った。でも、まさか家出なんて大人げないことをするとは思わなかったんだ。


 翌日、受付所では会えずじまい。夜になってもカカシ先生は家に帰ってこなかった。
 そんな日が何日も続いた。もちろん任務じゃないのは確認済みだ。
 そうだよな、上忍の家出だもんな。子供の家出宣言とはわけが違う。有言実行だ。
 大人のあの人には泊まるところなんていくらでもあるだろう。そう考えて納得しようとした。しかし、なぜか里中をふらふらとさまよい歩く姿や野宿する姿が浮かんできて、不安になった。
「イルカ先生どうしました?」
 仕事に集中できず、同僚にまで心配される始末。
「家出してしまって……」
 どうしようかとぼんやり考え込んでいたため、うっかり口を滑らしてしまった。
「家出って誰がです?」
「あ、いや。ね、猫が……」
 まさか『写輪眼のカカシが』とは言えない。みんなの憧れの的とも言えるエリート上忍が家出中ですなんて!
 それに一緒に暮らしていることは、ごくごく親しい友人しか知らないし。
「へぇ。イルカ先生、猫飼ってたんですかぁ」
「猫って可愛いですよね」
 隣で仕事中の先生方まで話題に加わり、職員室はなんだか盛り上がっている。
 みんな猫好きなんだな。
「どんな猫なんですか?」
 どんなって。
「えと……銀色の毛で、左右の眼の色が違う……」
「オッドアイですか!」
「なんか美猫っぽいですね。見てみたいわぁ」
 とっさに出た嘘だったけれど、案外まるきり嘘じゃないことに気づき、肩の力が抜けた。だって、猫のように気まぐれで、気位が高いくせに甘えてみたり、そっくりじゃないか。
 家を出て行って今頃どうしているだろう、あの猫は。
「そうそう。この前うちの猫がさ、家出したときに怪我して帰ってきちゃって……家猫だから外は危ないよな」
 家出した猫が怪我。
 いや、何動揺してるんだ、俺。しっかりしろ。
 相手は猫じゃなくて、本物の上忍だろ。任務でもない限り怪我なんてするわけがないんだから。大丈夫に決まっているのに。
「大丈夫ですよ。仮にも忍びなんだし」
 そう、大丈夫だよ。心配ない。
「あ、忍猫ですか! でも、やっぱり心配ですねぇ。聞いた話だと、彼らはプライド高いから、そこらの餌じゃ満足できなくてガリガリに痩せて帰ってくることがあるんですって」
「え」
 痩せて帰ってくるって。
 たしかに嫌いなものは頑として食べない。気に入らないものは無言で残していたりする。けっこう好き嫌いが激しいのだ。
もしかして食べられるものがなくて、ひもじい思いをしているかもしれない。
 その上食べることにあまり執着しなくて、よく食事を忘れたりするから。お腹が空きすぎて、どこかで行き倒れているかもしれない。
 馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、そんな心配をし出すと居ても立ってもいられなくなった。
 勢いよく立ち上がると、周りは何事かと驚いている。
「すみません! 今日は早退させてください」
 慌てて鞄をひっつかむと、職員室を飛び出していた。


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