【ひとめ会ったその日から2】


さて、どうしようと思った。
花が咲いたはいいがこれからどうしようか、と。
どう見てもフツーに背広着てた男だっただろ、男に恋なんかしていいのか俺!などとみみっちいことは言わない。
俺は自分の直感を信じる。
そして信じようが信じるまいが、恋をしたのならそれを逃さないように努力すべき。俺の心の中はそう決まっている。
だからそれに関しては迷うことはない。
問題は、彼がどこの誰で、これからどう俺のことをアピールしてお付き合いするまでに漕ぎ着けるかなのだ。
まず、彼の服装からするに今日の健診を受けに来たサラリーマンと見た。
外来患者、あるいは入院見舞いとも考えられるが、ここのトイレは奥まった健診受付よりさらに奥にあるトイレ。そういう人間が来るとは思えない。もちろん迷った、あるいは空いてるトイレを探して彷徨ってきた可能性もあるにはある。
健診ならばまだチャンスはあるが、外来か見舞いならかなり厳しい状況だ。
検尿コップを待つ間、俺の心は千々に乱れた。
そこへ、彼が息を切らせてやってくる。
見も知らぬ男のためにこんなに一生懸命に動けるなんて。その姿から伝わってくる、心や言動すべてに心惹かれる。
「はい、どうぞ。貰ってきましたよ」
「ありがとうございます」
手渡されたコップを緊張の面持ちで受け取る。
今思いきって行動するしかない。そうしなければこのまま目の前の人は立ち去ってしまうだろう。
「あのっ、俺ははたけカカシと言います」
「あ。俺はうみのイルカです」
おそらく条件反射で答えてくれたのであろう名前を、心の中で反芻する。
イルカさんかぁ。
海を自由自在に泳ぐ生き物と同じ。いいな、なんかぴったりの名前だ。
胸の辺りがほんわかする。
「今日は健康診断を受けに来たんです」
礼儀正しい人なのか、聞いてもいないのに俺の疑問に答えてくれる。
ラッキーだ。
「イ、イルカさんは健康診断に慣れてるんですかっ」
いきなり下の名前で呼んだら図々しいかな、と思った。
思いはしたが最初が肝心。勢いで言ってしまえば次からはそれで通せる。……きっとたぶん、嫌われなければ。
返事を待つ間ドキドキした。
「ええ。毎年受けてますから」
名前を呼ぶのを受け入れてもらえた!
普通に答えが返ってきて、もう言うしかないと思った。後がない俺は、この人の良さと優しさにつけ込むのだ。
当たって砕ける直前まで頑張ると決意する。なぜ直前かといえば、もちろん砕け散ったら困るからだ。
「実は俺、健診受けるの初めてで。今日はぜひ一緒に廻ってください!」
子供じゃあるまいし、その誘い文句はどうなんだと思わないでもない。
だが、いきなり初対面の人間ではこれぐらいが関の山。嫌そうな顔をされませんように。
「ああ! ええ、いいですよ。最初は不安なものですからね。俺でよければいくらでも」
あっさりと了承され、身体が震え出しそうなくらい嬉しい。今日この時に健診を受けに来た自分の幸運に感謝したいくらいだ。
そうと決まればこんなトイレで愚図愚図してるわけにはいかない。
「少し待っててもらえますか」
と手を合わせる。
「はい」と笑って答えてくれたことに安堵した。
幸運を逃さないために、なんとか根性で尿を絞り出す。たとえ少なくて測定不能だったと言われたとしても、それは後で叱られればいい話だ。
トイレの横にこれ見よがしにある尿検査受付の小窓にコップを置いた。
「検尿を提出したら、健診着に着替えて身長なんかを測るんです。ほら、こっち」
なにげなく腕を引っ張られ、ドキドキしたがそれに逆らわずに移動する。
歩きながらイルカさんは気軽に話しかけてくる。
「え〜と、カカシさんは健診初めてなんですか」
わ。名前で呼ばれた。
ちょっと感動だ。
「そ、そうなんです。今までずっと機会がなくて」
「ちゃんと毎年受けた方がいいですよ。病気は早期発見が一番肝心ですから」
「はい、今年からはちゃんと受けます」
あなたが一緒だったら一年に一回と言わず毎日だって!とはまだ言えない。
そうこうしているうちに脱衣室に辿り着いた。


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2007.01.20


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