【ひとめ会ったその日から5】


検査室から出てくるイルカさんを待って、次の検査へと並んで歩く。
「次は採血ですってね」
待っている間に仕入れた情報で話題作りと思ったが、イルカさんの表情は浮かない。
どうしたんだろう、何かあった?
「実は俺、採血苦手なんです」
「そうなんですか?」
姿勢の良いピンとした背筋が、今は俯いて丸まっている。少し眉を寄せて困った顔。
「生まれつき血管が細いらしくて。ベテランの上手な人じゃないと血管すら見つけてもらえなかったりするんです」
よほど恥ずかしいと思っているのか、内緒話のように耳元で囁いてくる。俺の耳を掠めんばかりだ。
うわ、くすぐったい。
こんなにくっついていたら、まるで仲の良い恋人同士みたいだ。その想像はとてもとても良い気分にさせてくれる。
いやいや、イルカさんが困っているときに俺としたことが!
「だからちょっと憂鬱なんです。でも検査だから仕方ありませんよね。できるだけ楽しいことを考えるようにしてるんです」
ちょっと元気のない笑みに胸が痛んだ。
辿り着いた先では、二人の看護師で採血していた。
一列に並んだ俺たちは、空いたところへ順々に座り検査をする。効率的といえば効率的だ。しかしどちらの方に採血してもらえるかは選べない方式。
一人はおばさん。一人はかなり若い。
どう見てもあっちの方がベテラン。なんと言っても手際が良い。
もう一方は看護師なりたての新米っぽい。しかもこっそり観察していると、いちいち確認してから行動するからモタモタ感が拭えない。
若いから下手とは一概には言えないが、この場合はどう見てもベテランの方に軍配が上がる。
だがしかし。順番からいくと、どうもイルカさんがあの新人の彼女に当たる可能性大だ。
どうしよう。
ここで辛い思いをするなんて可哀想じゃないか。命に関わる手術ならともかく、ただの検査なのに。
採血している作業を、イルカさんは硬い表情でじっと眺めている。
毎年検査してるのに苦手ということは、よほど嫌いなんだよ。俺がなんとかしてあげたい。
やきもきするうちに順番が回ってくる。
「次の方どうぞ」
若いお姉ちゃんが次を促したとき、俺は決意した。
きゅっと唇を噛みしめたイルカさんが足を踏み出すのを、肩を掴んで留める。
「イルカさん。悪いけど俺が先にしてもいい?」
「え?」
「ね、お願い」
「でも、あの……」
反論されないうちにさっさと前に進み、白いカバーのかかった丸椅子に座った。
左腕を小さな枕もどきの上に晒して待っていたが、相手からは何の反応もない。
「あの?」
声をかけると、看護師はハッと我に返った。
「あ、すみません!」
大丈夫かな、この人。
多少不安に思いつつも、すでに隣に座って二の腕を晒しているイルカさんのことの方が気に掛かる。
ぺちぺちと叩く音にぎょっとして振り向くと、イルカさんは腕を叩いて血管を浮き立たせている真っ最中だった。
こんなことまでするのか、と呆然と見つめていると左腕に痛みが走った。
「痛ぇ」
「ああっ、すみません!」
若い看護師は血管を見誤ったようだ。針が通らなかった。
やり直したのだが、二度目も失敗した。
手が心なしか震えていて素人目にも怖い。何度もやり直され、痛みに呻く。
唯一の救いはイルカさんがこの看護師に当たらなかったことぐらいか。
「すっ、すみません! もう一回、あと一回で必ず血管に入れますから!」
もうどうにでもしてくれ。
溜息をつきながら横を見ると、イルカさんが顔を真っ青にさせている。
俺が目を離している隙に何があったのかと、居ても立ってもいられなくなった。
「あら、大丈夫かしら。血が止まってしまいましたね。ちょっとだけ手を握ったり開いたりしてみてもらえますか?」
どうやら採血検査に出すだけの量に達してないらしい。
それにしても無茶を言う。
止まったのなら止まったところでやめさせてくれればいいのに。イルカさんが可哀想だろ!
蒼白になりながらも看護師の言うことに頷き、健気に手をにぎにぎするイルカさん。痛々しいことこの上ない。
いっそもう足りない分は俺の血で補うから!
と言いたかったが、さすがにそれは無理だろうから我慢した。
そっちの経過にハラハラしているうちに、俺の採血はいつの間にか終わっていたらしい。


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2007.03.03


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