【ひとめ会ったその日から8】


看護師から下剤を渡され、すぐに飲むよう指示される。
しかし、そんな白い錠剤よりも気になってしょうがないのはイルカさんのこと。
姿を探すが目に入らない。落ち着かずキョロキョロと辺りを見回す。
しばらくして、部屋の片隅にある洗面台に居たイルカさんの姿を見つけた。振り返って俺の顔を見ると、にこっと笑って駆け寄ってくる。
その行動が嬉しくて、気持ちがほわんと暖かくなる。
しかし、一瞬後にはそんな感情は吹き飛んだ。
俺の顔を見てぷっと吹き出したのだ。
え、何?
何か笑われるようなことしたっけ。
馬鹿にしたような感じではなく楽しそうではあるのだけど、すごい不安になる。
「白いひげがついてますよ」
「髭?」
髭は朝剃ってきたはずだけど。
思わず顎に手をやると、イルカさんはますます笑って俺の腕を引っ張った。
どうやら洗面台についている鏡の前へ連れて行こうとしているらしい。が、俺としてはそれどころではない。触られている左半分に意識が集中する。
今心電図をとったら絶対異常と診断されるに違いない、と思った。
この状況で、もう大人しくついていく以外俺に何が出来ただろう。
連れてこられたことに困惑していたが、鏡を見て驚いた。
口の周りに白いものが付いている。なんて間抜け顔!
呆然と見ていてハッと閃いた。
バリウムだ!
さっき飲んだときに付いて、そのままになっていたんだ……
くそっ、バリウムめ。俺に恥かかせやがって!
イルカさんに笑われただろうが!
慌てて手で拭うが、乾いてこびり付いているので取れやしない。
「濡らさないとちょっとやそっとじゃ落ちませんよ、それは」
イルカさんが自分のハンカチを濡らして俺の口元を拭う。
えええええ!
驚きのあまり硬直していると、
「はい、綺麗になりましたよ」
と満足げな笑顔が振りまかれた。
俺はといえば、どう反応してよいのかわからず茫然自失だった。
すると俺の行動でおかしいと気づいたのか、さぁっと頬が染まった。
「あっ、すみません。年の離れた弟の面倒をいつも見ているものだから、つい癖で……立派な大人の人に失礼でしたね」
イルカさんは恥ずかしそうに言い訳して、ハンカチを握りしめた。
「いえっ、とんでもない! 好きだから嬉しいです!」
「え?」
大きく見開いた目を見て、何言ってるんだ!とパニックになる。告白できるほど親しくなったわけでもないのに、早急すぎる。
ぽろっと口をついて出た言葉は真実だったけれど。
なんとか誤魔化さなければ、と焦る。
「せ、世話を焼いてもらうのが大好きなんです!」
拳を握りしめて力説すると、こんなヘンテコな言い訳を信じたのかイルカさんは嬉しそうに笑った。
「よかった」
世話を焼いてもらうのが好きだなんて嘘もいいところだ。大嘘。
今まで自分でできることを他人にやってもらって喜んだことは一度もない。あれこれ構われるのは嫌いだ。そう思っていた、今までは。
けれど、イルカさんに対しては違う気がする。
何かしてもらうのはすごく嬉しい。だってそれは俺のことを見て考えてどうしたらいいんだろうって心を砕いてくれてるってことだと思うから。
それってすごいことだよね?
あ〜、驚くばかりじゃなくてもっと堪能しておけば良かった。気恥ずかしさはあるけれど、せっかく俺自身を見てくれていたのに。
悔しがっていると、イルカさんが俺が手にしたままの錠剤を見て、気になるのかちらちらと視線を送る。
「飲まないんですか?」
面倒見のいいイルカさんからしてみれば、看護師の指示に従わない俺はどうしようもなく言うことを聞かない子供みたいな奴だと思われているのではあるまいか。
そういえば最初に会って健診を一緒に回るよう頼んであっさりOKを貰えたのも、手の掛かる弟気分だったのかもしれない。
そう考えると複雑な心境だ。喜ぶべきか悲しむべきか。
そんな俺の心の内も知らず、
「早く飲まないと駄目ですよ」
と、イルカさんは睨む真似をする。
全然怖くなくて、むしろ可愛いなぁと思って頬がだらしなく緩んだのが悪かったのか、イルカさんは少し怒っている様子。
「ちゃんと飲まないと、お腹が痛くてどうしようもなくなって病院に担ぎ込まれますよ!」
「えっ、それ実体験ですか?」
驚いて聞き返す。
「違いますっ。友人が……」
「そうですか」
ああ、よかった。
また怒らせて機嫌を損なわないうちに、と慌てて錠剤を飲み込んだ。


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2007.03.31


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