【魔術師の弟子3】


どうして俺の名前を知っているのだろう。しかもフルネームを。
実は、今の職場では『はたけ』とは名乗っていなかった。
昔の名前だ。それを何故?
そればかりが頭を占めていて、同僚の「あの子の名前を聞いたのか?」「なんて名前だった?」などという問いかけにも答えず終いだった。もちろん普通の状態だったとしても教えてやるわけもないが。野次馬ごときに教えるなんて勿体ない。せっかく手に入れた名前なのだから。
しかし、今はとにかくそんな余裕もなかった。
どうしたらいいのやら、わからなくて困る。名前はわかっても、どこに住んでいるのか何をしているのかもわからない。この広い巨大都市で人一人見つけるのは容易ではないのだ。
『また来ます』という言葉だけが唯一の救い。か細いか細い頼みの綱だけれども。
来週また来ると信じて待つしか手立てはなかった。


同じ曜日の同じ時間。それには一体何の意味があるのだろうと考えながらカードを配る。
なぜなら、もしも来なかったらと思うと不安だから。何かを考えていれば気も紛れるというものだ。
週一で給料が出る仕事?それとも違う曜日は違うカジノに通っている?
いろいろと考えてみるものの、結局答えが見つかるわけがない。ため息をつこうとして、目の前の椅子に頭を悩ませている本人が座り、慌ててしまった。
「こんにちは、カカシさん」
「こ、こんにちは。イルカさん!」
勢い込んで挨拶をすると、
「名前を覚えていてくれたんですか!」
と、嬉しそうに笑った。
もちろん覚えていますとも。この一週間、あなたのことしか考えてなかったくらいです。
などとは、とても言い出せなかった。まだ告白するほど親しくはないのだから。
手をじっと見つめてくる視線にドキドキしながらカードを配る。
良い目のカードを置いてあげると、ちらりと俺の顔を見て微笑む。やはりカードを操作しているとわかっているようだ。俺のカードさばきを見破るなんて滅多なことではできないはずなのに。
ディーラーのイカサマ審査会の調査員とか?
そんな架空の団体まで想像してみるが、イルカさんの正体はさっぱりわからない。
「あの……カカシさん」
「はいっ」
遠慮がちにかけられる声にビックリして、返事も裏返る。
「お仕事は何時に終わりますか?」
「えっ?」
突然話しかけられたかと思うと、その質問の内容に二度ビックリだ。
「今日はもう終わりで、後は着替えて帰るだけです」
まさかデートのお誘い、なわけはないか。期待はしない方がいい。
「もしよければ、会っていただきたい人がいるんですが……」
またまた驚いた。俺に会いたい人とは一体誰のことだかわからない。
しかし、これはチャンスかもしれない。
断ってしまえばイルカさんとの縁も切れて、そこで終わってしまうだろう。会いたいという人物に会えば、今後何らかの展開があるはず。イルカさんが何者かもわかるかもしれないのだ。
「わかりました。イルカさんが案内してくれるなら会ってもいいですよ」
「本当ですか!」
嬉しそうに身を乗り出してくる姿を眺めて、頷いた。
「それじゃあ、着替えてくるんでどこかで待っててもらえますか?」
「あ。実は買い物が残ってて……今日はブリオッシュを買って帰らないといけない日なんです」
ホテルのショッピングモールに入っているパン屋は結構有名で、遠くから買いに来る客も多いと聞く。しかも一週間に一回だけ、特別に売りに出されるブリオッシュは長蛇の列ができるという噂だ。買いに行ったことなどないから見たことはないが。
「もしかして、毎週同じ時間にここへ来るのはそのせいですか?」
「そうなんです。パンが焼き上がる時間までここで少しだけ時間を潰して買って帰るのが習慣で」
恥ずかしそうに照れて答える姿も可愛い。しかしそれにも増して、少しだけ謎が解けて嬉しかった。
「それじゃあ、これから列に並んでまだまだ時間がかかりそうですね」
「いえ、大丈夫です」
などとあっさり言う。たしかにいつも長蛇の列だと聞いていたのに、と不思議に思った。
「いつも買いに行っていたら、親切な店員さんが『焼き上がる頃裏口に回れば分けてあげる』って言ってくれたので、後はもらって帰るだけなんです」
「ぶっ」
おそらくその店員はイルカさんが好きなのだろう。にっこりと笑う姿は、その意図がわかっているとは到底思えなかった。彼にとっては親切な人という認識しかないのだ。
すごい鈍い人みたいだ。それがこれからの俺自身の前途多難さを象徴しているようで、少しへこみそうだ。
「じゃあ、着替えてくるんで」
「はい。パン屋の前で待ってますから」
別にそんな意味ではないのに、なんだか待ち合わせみたいで気が逸り、控え室へと急いだのだった。


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2004.07.03


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