その日は二人で飽きることなく泳ぎ続けた。
とうとう疲れて砂浜に上がったときには、ちょうど太陽が沈み、空が青紫からだんだんと色を変えていく頃だった。
そのときイルカが言葉を覚えたいという意味合いのことを言ったのだと思う。
本当にそう言ったのかどうかは自信がないが。
けれど、なんとなくそう訴えている気がした。
俺自身も、もっと話が通じたらいいと思っていたので、お互い教え合おうと伝えた。
破顔したイルカに、明日も合う約束をなんとか取り付けてその日は別れた。
帰るのが名残惜しくて何度も振り向けば、薄い闇の中で人影が小さく見えるまでになっても大きく手を振っていた。

それからは毎日一緒に過ごした。
言葉を教え合うときはもちろんのこと、海で泳いだり、島の景色を眺めたり、いつも一緒だった。
イルカは覚えがよく、日常的には単語を羅列すればたいていのことは通じるようになった。
しかし。
「カ・カシ」
俺の名前だけは、何度教えてもその奇妙な発音が直らなかった。
それでも何度も聞いているとその呼び方にも慣れてきて、その呼び方以外ないような気分にすらなった。
イルカの心地よい声に呼ばれたら、それが本当の俺の名前のような気がした。

「イルカ！」
その日も二人で木陰で休んでいたとき、呼ばれた声。
そういえばこの声は、初めてイルカに会った日も彼を呼んでいた声だった。
なぜだか胸に不快な煙が充満するようなムカムカした気分になった。
「最近どうしたの、イルカ。全然顔を見ないから探してたんだよ」
親しげにイルカに触ってくるその男には、見覚えがあった。
村長の息子のミズキだ。
あまりしゃべったことがなかった。むこうも特に好意的だったわけでもなく、話しかけてくることもなかったし。
そういえば、村長があんまり島の言葉をしゃべらない子だと言っていたっけ。
もともとが村長が所用で出かけていたここよりも都会の島で産まれた子だから、この島の言葉はわからないのだと。
俺にとっては好きとか嫌いとかいう以前に、どうでもいい存在だった。
しかし、今はいけ好かない野郎だという印象しかない。
何かとイルカに触りたがり、ベタベタと鬱陶しい。
「ミズキ」
ただ名前を呼んでいるだけなのに、どうしてこんなに胸がチリチリと痛むんだろう。
「あの…カ・カシ。遠くから、来た」
一生懸命紹介しようとしているのがわかった。
少しだけムカムカした気分が晴れた気がした。
ミズキが不審そうな視線を遠慮なく向けてくる。
「はたけさん？…こんなところで何をしてるんですか」
口調は丁寧だが、いかにもここはお前の来るところじゃないと言いたげな表情だった。
「カ・カシに言葉、習ってる」
「イルカが？」
こくこくと頷いて問いかける。
「イルカの言葉、わかる？」
「上手だね」
ミズキが誉めると、いつものあのはにかんだ笑顔を見せた。
チリチリとした痛みはさらに酷くなって俺を苦しめる。
それからイルカは、俺とミズキに向かって
「仕事あるから、もう行く。また、明日。ナナー」
と手を振って行ってしまった。
いつも思う。
イルカが行ってしまった後の物悲しい気分は、好きじゃない。
はぁとため息をついた後、ミズキが睨んでいるのに気づいた。
「なにか？」
問うてみたが、ふいと顔を背けると何もしゃべらずに行ってしまった。
感じの悪い奴だ。
好きになれそうにない。
その日はそれだけで一日が終わったのだった。