【迷い猫】


それは、しとしとと雨が降りしきる宵の口だった。
いくら人通りの少ない道端とはいえ、まさかそこに人が転がっているとは思わなかった。
手足を投げ出して塀にもたれ掛かっている生き物。
雨の匂いにかすかに混じる血の匂いからして、酔っぱらいというわけでもなさそうだ。暗部支給の服を身に纏っているところを見ると、任務帰りと思うのが妥当だ。
「怪我を?」
相手が自分の存在に気づいているのを確認してから、慎重に声をかける。無闇に接触しようとするのは危険だからだ。しかし、怪我人ならば医療班に連絡が必要だろう。
「……いや。これは返り血」
なるほど痛みに耐えている風でもない。
普通、この季節に長時間雨に打たれていれば、どうなるかはわかるはずだ。けれど、そんなことには無頓着なようだ。ぼんやりと座り込んでいる、ただそれだけなのだろう。
その姿はなんとなく、主人に先立たれて途方に暮れている哀れな迷い猫を連想させた。
顔色も悪く、時たまブルッと体を震わせる様を見ていると、放っておくわけにもいかない気がする。
道端に捨てられた犬や猫のたぐいはどうも苦手だ。目を離した隙に死んでしまいそうなところが。
「寒いんだったらうちに来るか?」
胡散臭げに眺めてくるので、
「別に来たくなけりゃ、来なくていいんだぞ」
と言えば、さすがにこれ以上ここにいるのも躊躇われたのか、のそのそと起き上がった。歩き出せば、つかず離れずの距離を保ちつつ後をついてくる。
でっかい猫を拾ってしまった、という印象が強かった。しかも、自分にはとうてい懐かないであろう可愛げのない猫を。
その猫の名前は、はたけカカシと言った。


「あぁ?はたけカカシ?」
なんてこった。あの写輪眼のカカシかよ。面倒くせぇことしちまった。
雨で冷えた身体を湯船に放り込み、湯気を立ち上らせながら出てきた猫に飯を食わせていた時だった。名前を聞くと平然とそう答えた。
「俺って有名?」
「まぁな」
「ふぅん。俺もアンタのこと知ってるよ」
「なに?」
「猿飛家のアスマだろ。アンタだって結構有名」
俺は嫌そうに顔を顰め、
「何で有名かは想像つくけどな」
と言った。
どうせ火影を出した血筋にしては覇気がないだの、真面目じゃないだの、噂には事欠かないのだ。暇な連中は五月蠅くて困る。きっとカカシが聞いたのもそういう類だろう。
すると相手は想像していなかったことを言った。
「いーんじゃない?別に猿飛家だからって、火影にならなきゃ生きていけないわけでもあるまいし」
意外にも頭が弱いわけではなかったらしい。
カカシが聞いたら怒りそうなことを考えたが、しかし、あんな行動を目撃してそう思わない方がおかしい。
なるほど人は見かけによらないものだ、と飯を食う姿を眺めていたら、思わず叫んでいた。
「ちょっと待てー!」
「は?」
「なんでそんなに飯をボロボロ零すんだ、お前は!」
食卓の上は、飯粒や貧しいおかずの屑などが散乱していた。
「あー。俺、箸苦手なんだ」
ああ、そういえば写輪眼のカカシといえば、6才で中忍になったのは有名な話だ。ろくに躾もされないうちから任務巡りでは、箸の持ち方を覚えないのも無理はないことかもしれない。戦場では干し肉だの兵糧丸だの、箸を使うことなど滅多にない。
「汚されたらたまらんから、これ使え」
そう言ってスプーンを差し出すと、カカシは眼を見開いてじっと見つめている。
まさかスプーンも知らなかったのか、と思い始めていた頃。
「箸が使えないとさ。たいてい五月蠅く言ってくるんだよね、握り方指導」
「ああ」
たぶん年輩の忍者のことだろう。年寄りはそういうのに五月蠅いものだ。
「アンタはそういうの言わないんだね」
「別に箸の握り方が少しぐらいどうだろうが生きていけないわけでもあるまいし。俺はかまわねぇよ、汚されさえしなけりゃな」
カカシはその答えがいたく気に入ったようで、機嫌良くスプーンで飯を掬い始めた。
その日以来カカシは、俺のことを餌だけは与えてくれて無闇に触ってこない都合のいい人間だと認識したのか、ただ単に仮の宿と認識したのか、たまに家に通ってくるようになった。


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