【無何有の郷(むかうのさと)1】


 細かい雨が降っていた。
 ほとんど霧のような雨で、追っ手を撒くには都合がいい。けれど、体温が下がるのは避けられない。残り少ない体力も徐々に奪われていく。
「アスマ先生、しっかりしてください」
「うう……」
 先程までは強がりであってもまだ返事があった。今は呻くぐらいで、意識もほとんど残っているとは思えない。
 この雨だ。仕方がない。
 ほとんど肩に担ぐようにしている身体が、さらに重みを増す。イルカ自身も無傷とは言い難い身体を引きずって、何とか前へ進もうと努力を重ねる。
 せめて発見されないよう陣を組んで休めたら、と思わないではなかったが、そうするには時間が足りない。簡単な隠遁の術で目眩ましをかけるのが今できる精一杯だった。しかしそれだとて、勘の鋭い忍びならばすぐに看破できるようなもの。追いつかれたら一巻の終わりだ。
 ぬかるんだ地面のせいでバランスを崩しかけ、なんとか倒れまいと踏み留まっている時、ふとイルカは自分の胸元に揺れる鈴が目に入った。
 小さな金の鈴。
 どんなに揺れても音は出ない。
 けれどそれは、カカシが揺らすとリンと涼やかな音がしたのだ。


□ □ □


「イルカ先生。今度遠出の任務ですって?」
「ええ、そうなんです」
 顔を合わせるなりカカシが聞いてきた。
 どうして知っているんだろう、とイルカはぼんやり考える。
「アスマに聞いて」
「ああ」
 今度の任務は上忍師のアスマとツーマンセルとなる。
 上忍仲間でも特にアスマと親しくしているカカシならば、耳にしたというのも納得できた。守秘義務で内容は明かせなくとも、親しい者に誰それと行くと話す程度なら許されるだろう。
「心配だな」
 カカシが眉を寄せる。
 不安そうに揺れる青灰色の瞳がイルカをじっと見つめていて、少々居心地が悪かった。
 端正な顔が間近にあるのはまだ慣れない。心拍が上がってきて息苦しくなる。
 それを振り払うように、イルカは殊更明るく答えた。
「大丈夫ですよ、たいした任務じゃないですから」
 けれどカカシは黙り込んだままだ。
「それともそんなに信用ありませんか?」
 力も経験も不足している中忍と思われているのか、とイルカは疑る。
 けれど、カカシから見ればそれはあたりまえのことなのかもしれないとも思う。四代目の愛弟子で小さい頃から活躍しているカカシに比べれば。馬鹿馬鹿しいくらい華々しい伝説を話半分としても経験も実力も及ぶものではないのだから。
「いえ! そういう意味じゃあ……」
 カカシは慌てて否定した後、苦い笑みを浮かべた。
「きっと、ただ単に俺が寂しいだけで」
「え?」
「イルカ先生が側にいないから寂しいんですよ」
 さらりと言われた内容が耳から入って脳に到達すると、イルカの頬は真っ赤に染まる。
 元アカデミー生を通して知り合った上忍師は、出会った瞬間から『あなたが好きです。初恋なんです』と告白し出す変わった人で。最初はイルカも『まさかご冗談でしょう』と本気にしなかった。
 しかしいつまで経ってもそれは撤回されることもなく、毎日のように続く告白に嘘でも冗談でもないと知った。頑なに拒否していたはずなのに、その優しい眼差しや人を思いやる暖かさにイルカがカカシを好きになってしまうのにそれほど時間はかからなかった。
『はい』と答えた時にカカシのきょとんとした顔にじわじわと喜びが広がっていく様は、イルカにとって恥ずかしいと共に愛しい宝物となった。
 こうして二人は付き合い始めたが、いまだイルカは恋人から何気なく示される愛の言葉に慣れずにいた。
「お守りです」
 差し出されたのは鈴だった。チリリンと音がする。
 任務に音の鳴る物など禁物。そんな基本をカカシのような上忍が知らないわけがないだろうに。
 イルカは戸惑い、手に取ろうかどうしようか迷った。
「特別な時しか鳴らないようになってますから、肌身離さず持っていて」
 縋るような瞳にイルカは嫌だとは言えなかった。
 たしかに手に取ってみれば壊れているのかと疑うくらい鳴る気配がなく、先程の涼しげな音が懐かしくさえ感じられた。


□ □ □


 任務は密書を届けるというごくごく簡単なもので、実際上忍と中忍が二人掛かりであたるほどの任務ではなかった。
 しかし相手が一国の重鎮となれば、ある程度信用される地位や外交的手腕が必要となってくる。
 そこでアスマに白羽の矢が立った。サポートとして勤勉で、しかもよく三代目の付き人として出歩くことが多かったイルカが選ばれたのは、自然の流れだった。
 任務の性質上、一番緊張を強いられるのは密書を渡すまで。後は帰るだけで終了となる。返答を持ち帰るならば油断するわけにはいかないが、熟考を要する件とやらですぐに返事を貰える類の任務ではなかった。
 帰り道はのんびり世間話がてら帰途につく。
「そういえばイルカ」
「はい」
「前からお前に言っておこうと思ってたんだが……」
 いつもなら言いたいことはきっぱりと口にするアスマが躊躇っているという事実。イルカはこれは大事な話なのだ、と心を引き締めて待った。
「実はカカシは……木ノ葉の出身かどうかわからない」
「え?」
 イルカはアスマの言葉に戸惑う。
 里の外で産まれたという意味だろうか。そんな疑問で首を傾げる。
「拾われたそうだ、はたけサクモにな」
「拾われ……た?」
「五歳かそこらの頃だったと聞いている」
 六歳で中忍になったとイルカは聞いていた。それでは拾われてほとんどすぐに下忍になったというのか。
 驚きを隠せない。
「捨て子だったということですか?」
「詳しいことはよくわからん。拾った本人がそれに関して一言もしゃべらなかったからな」
「そうなんですか……」
 頷きながらイルカは何かが脳裏にひっかかった。しかしそれが何かは思い出せない。
 黙り込むイルカに、アスマは信じていないと思ったのか更に付け加えた。
「だがこれは確かな筋から聞いた話だ」
 一部の人間にとってその事実は、里を脅かす脅威となるだろう。真実の生まれ故郷ではない里ならば裏切る可能性が高いということだ。だから冗談でも口にする類のことではない。
 アスマが確かな筋と言うのなら、それは事実なのだろう。三代目の息子である彼が、いい加減なことを公言するはずがないのだから。
 気がかりの原因は結局思い出せなかったが、イルカは穏やかに微笑んだ。
「昔がどうであれ、あの人は木ノ葉の忍びですよ」
 カカシが木ノ葉を裏切るはずがないとイルカは知っている。
 はっきりとした理由を言うのは難しい。ただそう感じるだけだ。けれど、例えばそれは太陽が東から昇るようにごく当たり前のことなのだ、イルカにとって。
「ああ、もちろん。俺もそう思う」
 長い腐れ縁だと普段は茶化すアスマは、静かに頷いた。
「でも、どうして俺にそんな話を?」
「カカシと付き合ってんだろ」
 さらりと事実を指摘され、イルカが狼狽える間もなくアスマの話は続く。
「だから知っておいた方がいいこともあるだろう。なんでだか知らんが、どうもカカシはその話をお前にするのを嫌がっててな。だが、他からくだらん噂として聞くのと事前に知っておくのでは俺は違うと思ったんだよ。ま、そんな心配は必要なかったみたいだが」
 一見ぶっきらぼうに見えてアスマはよく気が回る。その心配りにイルカは感謝した。
 聞いたから動揺するわけではないが、無知のままの言動は時として人を傷つけることもある。そういう意味では知らないより知っていた方がいい。
 そんな話をしながら歩いていた時、ふと二人の足が止まった。
 気付けばすでにただならぬ気配があった。
 耳を澄ませば、大勢の息遣いが聞こえる。
 途中まで気づかれずに近づくには訓練された人間以外ありえない。忍び、あるいは忍びくずれだろう。
 そして、これほどまでに殺気を漲らせておいて、友好的交流が目的とは思えなかった。
 アスマもイルカもいつでも武器を出せるよう身構える。
 相手は当然影からこちらを狙っているに違いない。
 緊迫感の増す中、その中の一人が姿を現し、口を開いた。
「猿飛アスマだな」
 質問ではなくただの確認だった。
「……そうだと言ったら?」
 それが合図だったかのように、彼らは襲ってきた。
 敵の数は多かったが、必ずしもこちらが不利というわけではなかった。力量の差はこちらの方が上だったからだ。
 上忍であるアスマはもちろん、イルカも敵と相対し次々と倒していく。
 このままいけば敵を殲滅できるはずだった。
「ここで俺たちを倒したとしても、後から来る本隊に殺されるのがオチだぜ。もう逃げられない」
 嘲笑うように言った男は、あっさりとアスマの刃を受けて事切れた。
 先発の様子見だと思われる彼らの実力を見る限り、本隊もそれほど脅威ではなかったが、任務でもないのにこれ以上敵が増えるのは好ましくない。さっさと逃走するに限る。
 二人がそう考えたのを感じ取ったのか、足止めのために最後の一人が術を発動させながらものすごい勢いでイルカへ向かってきた。玉砕覚悟だとしても、中忍であるイルカの方が与し易しと判断したのだろう。
 それでも普通ならば避けられるはずだった。相手だってそれをある程度想定していたに違いない。
 しかし、先程倒したはずの男が最後の力を振り絞ってイルカの足を掴み、避けるのが遅れた。戦場では一瞬の遅れが命取りになる。
 敵は目の前に迫っており、もう避けられない、とイルカが覚悟した瞬間爆音が響いた。
 吹き飛ばされて地面に叩きつけられた。がしかし、イルカの予想に反して致命的な怪我はなかった。そうは言っても戦闘力を削られる怪我ではあったが。
 咄嗟にアスマが庇ったのだと気づき、慌てて近寄る。
「アスマ先生! 血が……!」
「大丈夫だ」
 穏やかな嘘とは裏腹に、傷口は深く出血は止まりそうにもなかった。
 自分を庇ったために。
 イルカは蒼白になった。
「俺が足を取られたりしたからっ」
「いいんだよ。お前を死なせたら、どうせカカシに殺されるに決まってんだから。後で殺されるか今怪我しとくかの違いだ。イテテ」
 アスマは軽口を叩いているが、到底そんなことを言っている余裕はなかった。
 第一陣はすでに事切れていたが、敵はまだやってくる。けれど今のこの状態では勝つことは難しい。
 遠くで犬の吠える声が聞こえてくる。追っ手だ。
 アスマに肩を貸し、ほとんど引きずるように逃走する。
「俺のせい巻き込んじまって、イルカには悪いことした。すまん」
 アスマは守護忍十二士の一人。そのせいで要らぬ戦闘は多い。賞金首というだけでも狙われる理由は十二分にある。
 イルカは首を振って気に病むことではないと伝えた。きちんと対応できなかった自分の方が至らなかったのだ。そして本当に悪いのは襲った方なのだから。
 傷は広範囲にわたっていたので、布を身体に巻き付けるぐらいしかこの場で出来ることはなかった。そのまま逃げ切りたかったが、空はにわかにかき曇り、さぁと細かい雨が降ってきた。
 雨で犬の嗅覚を誤魔化せるのは有り難かったが、体温が下がるのは避けられない。圧迫止血をしていても、雨で濡れてしまえば血が滲んできて意味が無くなる。
 懸命に前へ進もうとするが霧が立ちこめて一歩先も見えなくなった。どちらへ進むべきかわからない。本当に大地を踏みしめているのかもわからなくなってくる。
 身体の方も限界だった。崩れ落ちるように地面に蹲ってしまう。
 誰か。誰か助けて。
 イルカは心の中で必死に助けを求めた。
 カカシ先生……。
 呼んだとて現れるはずもない人の名前を口にしようとして、頭を振る。
 馬鹿なことを。あの人に助けを求めるなんて。
 この状況では誰も助けに来られるわけがないのだ。里では襲われたことも知らないのだから。
 ついに片頬が地面につき、視界は土の茶色から暗転しようとしている。
 イルカは朦朧とした意識の中、リーンリリーンと鳴り続ける鈴の音を聞いた。
 あれほど振っても鳴らなかったというのに。
 イルカは『特別な時しか鳴らないようになってますから』という言葉と案じる瞳を向ける恋人の顔が頭を掠め、その瞬間に意識を失った。



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2008.05.18初出
2012.03.10再録



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