どれだけ気を失っていたのかはわからない。イルカが覚醒した時、霞む視線の先に小さな足が見えた。
　子供だ。
　小さくとも忍びである可能性はあったが、訓練されたチャクラは感じられなかった。
　もしかしたら近くに人家があるのかもしれない。
　その可能性に、イルカの胸に希望の灯火が点った。痛む身体をなんとか起こし、助けを乞おうとした。
「う……」
　左足に激痛が走り硬直する。
「イタイの？」
　幼い声がすぐ近くで聞こえた。
　イルカが視線だけでもと目を動かすと、金色の髪が見える。五歳になるかならないか。
　髪はナルトよりも淡い金だとイルカはぼんやりと考えていた。
　痛みに頬が引きつりそうになりながらも笑いかけ、誰か大人を呼んできてもらおうとした瞬間。
「ヒコさまー」
「ヒコさま。どちらにいらっしゃいますか？」
　大勢の人間の気配が近づいてくる。
　ヒコ。それがこの子の名前か。
　様をつけて呼ばれるからには高貴な血筋の子供なのだろう。面倒なことになりそうだとイルカは思った。
　こういった場合、身分ある人に近づく不届き者として処分されかねない。体調が万全なら対処もできるが、今の状態では身を守ることすら難しい。
　どんな展開になってもいいように、アスマの身体を引き寄せて身を固くして待った。
　運良くやってくる人間はすべて女性だった。女官風の衣装を身に纏い、立ち居振る舞いもどこか優雅なところがある。もちろん油断するわけにはいかないが、屈強の男達よりもずっといい。
「ヒコさま、いけません！」
「どこの出自ともわからぬ者に近づくなど！」
　女達はイルカとアスマの存在に気づくと、口々に否定的な言葉を発した。
　慌ててヒコと呼ぶ子供を全身で庇い、イルカから遠ざけようとする。
「スズ、もってた……」
　抱きかかえられたヒコがイルカの持つ鈴を指差す。
「まあ、これは！」
　それを目にした途端、彼女らの態度が一変した。
「どうぞ、お客人こちらへ」
「すぐに怪我の手当をいたしましょう」
　排除すべき者と認識されていたはずが、どういうわけか歓迎されているようにさえ見える。
　イルカは戸惑ったが、今はありがたかった。促されるままついていくことになった。



　意識がかなり朦朧としていたので、それからのイルカの記憶はあまりない。ただかなり深い渓谷にかかる吊り橋を渡り、切り立った崖に張り付くように建てられた大きな屋敷に入ったのだけは覚えている。気づけばどこかの一室に寝かされていた。
　横を見るとアスマが眠っている。
　呼吸は規則的、表情も穏やかで顔色もそれほど悪くない。
　イルカは安堵し、無理に起こしていた頭を枕に沈ませた。
　その時部屋の外に人の気配を感じ、イルカは緩んだ気持ちを引き締めた。
　すっと障子戸が開き、女が一人入ってくる。枕元に置いてあった水を換えに来たようだった。
「あら。気がつかれましたか？」
「あ、はい」
「それでは何か消化の良いものを用意させましょう」
　そう言ってすぐに出ていこうとしたので、イルカは慌てて尋ねた。
「あの、ここは一体どこなのでしょう」
「ここに住む者は無何有の郷と呼んでいます」
「むかうのさと……」
　それは理想郷の名前。自然のままで、人為のわずらわしさのない仙境だと皆が呼ぶ。
　本当の名を誤魔化されているのかとイルカは疑ったが、女は気にした風でもなく礼をすると、会話を続ける暇もなく退室してしまった。
「ここが何処なのか聞きそびれたな」
　イルカはもしかしたら誤魔化されたのかもしれないと思った。しかし、今このように休ませてもらえるだけでありがたいと思わねばならなかった。たとえどんな事情があるにせよ、今は放り出されることは避けたい。回復することが最優先だった。
　女は目を覚ましたイルカに気を遣ったのか、障子を開け放っていった。外の景色が見える。
　それはよく手入れされた庭だった。
　差し込んでくるうららかな日差しを受け、霧の中を彷徨っていたことを考えるとまるで別世界だとイルカは思った。
　そこへぴょこんと跳ねた金髪が目に入る。
　本人は隠れているつもりだろうが、忍びの眼でなくとも大人であれば丸わかりだった。きっと外から来た人間に興味津々なのだろう。子供にとってはちょっとした冒険気分なのだ。
「おいで。ヒコ？」
　イルカが声をかけると、その子は驚いて目を丸くした顔を晒した。
　正直子供とはいえ身分の高い人間を呼び捨てにしたのは拙かったかもしれない。と一瞬思ったが、子供は子供らしく扱うのが教師としての信条だったイルカは、それを押し通すことに決めた。
　子供の方はおそらく様付けではない呼び方に戸惑ったのか、もしくは見つかったことに対して驚いたのかは分からなかったが、しばらく固まっていた。しかし、次第に興味が勝ったのか恐る恐る近づいてくる。
　布団の横にちょこんと座り、寝ているイルカを物珍しそうに眺めている。その姿が愛らしくてイルカは思わず微笑んだ。
　痛む足に響かないようそっと起きあがった。
「はじめまして。俺の名前はイルカだよ」
「イルカ？」
　真似て名を発音する子供に、イルカは優しく頷いた。
　じっと見つめてくる紫がかった青い瞳が印象的だった。なんとなく、なんとなくだが遠く離れた恋人を思い出させた。



●next●
●back●
2008.05.18初出
2012.03.17再録