その後アスマも目を覚まし、このまま安静に療養すれば怪我も回復するだろうというのが二人の一致した意見だった。
　状況を説明した後、アスマはまた眠ってしまった。イルカも身体が休息を欲しているのか再び眠りに就く。
　夜になってどちらからともなく目を覚まし、イルカは怪我をした足を庇いながら庭に出てみた。
　しかし空を見上げて首を傾げ、もう一度見つめ直してから部屋に戻ってきた。
「アスマ先生、この郷はおかしいです」
　イルカの顔色が芳しくない。
　アスマは痛みを押して起きあがり、どうしたのかと尋ねた。
「星が……まったく知らない星空なんです。かなり迷って辿り着いたので、星を読んでこの郷の位置を確認しようと思ったんですが。それほど歩き回ったとは思えないのに、道しるべになる星がどこにも見えないんです！」
　説明している間に興奮してきて声が大きくなっていくイルカとは正反対に、アスマは黙り込んでしばらく考えにふけっていた。
「もしかしたら、まったく違う世界なのかもしれないな」
「違う世界、ですか？」
「本来なら辿り着けない切り離された世界。そんな世界がそこかしこにあると聞いている。そこに迷い込んだのかもしれない。イルカの話から察するに、鈴が鍵だったんじゃないかと俺は思っている」
　アスマの推測は俄には信じがたかったが、それ以外説明がつかなかった。イルカはここは本当に無何有の郷なのかもしれない、と思った。
「しばらく様子を見よう」
　イルカはアスマの言葉に頷いた。
　どちらにせよ二人の身体が治らないうちは動くことすらままならない。警戒を怠らず世話になるしかないのだ。目的のために己のできることから始める、それが忍びの鉄則だ。
　とりあえず生きて里へ帰る希望を見失わないようしっかり胸に抱き、眠りに就いた。



　それから毎朝毎夕、暇さえあればヒコはやってきてイルカにまとわりつくようになった。
　最初は扱いあぐねていたイルカも、愛らしい子供の姿を見ていたら次第に身分や地位などといったものを忘れて構ってしまう。ヒコも普通に接せられるのが嬉しいようで、よくイルカに懐いた。
「ヒコって呼んでもいいかい？」
　イルカが尋ねるとヒコはこくりと頷いた。
「まるで先生だな、イルカ」
　寝たままのアスマが口を挟むと、ヒコが小首を傾げる。
「せんせい？」
「こいつは普段アカデミーで『イルカ先生』って呼ばれてるんだ。いろいろ物を教えてるからな」
「イルカせんせい……」
「わぁ、やめてください！　ヒコにそんなこと言わなくたって」
　イルカが慌てて止めたが遅かった。
「イルカせんせい！」
　にこりと笑いながら呼ぶ名はすでに刷り込まれてしまったようだ。何度も呼び捨てでいいと言ったが、直す気配は微塵も感じられない。
　困りながらもイルカはふと思い出していた、恋人のことを。
　彼も自分のことを『イルカ先生』と呼んだ。
「先生、なんて……呼び捨てでいいんですよ。あなたは上忍なんだし」
　イルカがそう言うとカカシは照れくさそうに笑った。
「刷り込みみたいなもので、今さら呼び方は変えられないんです」
「刷り込みってもしかしてナルト？　そんなのいいのに」
　イルカが何度言ってもカカシは笑って取り合わなかった。
「イルカせんせい？」
　気づけばヒコの案じる瞳が目の前にあった。
「ああ、ごめん。ヒコはカカシ先生に似てるなぁって思って」
「カカシせんせい？」
「イルカの恋人だ。銀髪で、そりゃもう鬼みたいに強い上忍でな」
「アスマ先生！」
　イルカが怒って諫めると、アスマは首を竦めて布団に潜り込む。
　しかし、ヒコはその話を聞きたがった。
　この郷しか知らない子供にとって、イルカの話は娯楽や冒険と同じなのかもしれない。カカシのこと、ナルトのこと、木ノ葉のこと、忍びのことまで何でも興味を持って聞きたがり、イルカはその欲求に答えてやるのだった。



　この郷は不自然なまでに女性しか見かけない。
　最初は屋敷の奥まった部屋にいるからだろう、ぐらいにしか認識していなかった。しかし、これだけ滞在しているのに一人も男性を見ないのはどうしたことか。
　ただ一つの例外はヒコだった。それ以外は巫女と幾人かの女官たちにしか会うことのない日々。まるでこの屋敷と庭と空だけで世界が構成されているかのようだった。
　奇妙なことはいくつかあったが、だからといって療養の場を借りているイルカたちにはどうすることもできない。あまり詮索するとこの平穏な時を失うかもしれないと思うと、迂闊に屋敷内を調べることも躊躇われた。
　そんな中でもヒコの屈託のない笑顔は心を和ませるものであった。
　心根の優しい子で、幼いながらもイルカたちが退屈しないよう不自由がないよう気を遣っているように見えた。
　そういえばカカシもいつも優しかった。
　ただ、ふと遠い気がする。どこかで一線を引かれている気がしていた。本人は気づいてなかったかもしれないが、その立ち入ることのできない領域がイルカを寂しくさせる。
「イルカせんせい」
　ヒコに呼ばれ、イルカははっと意識を戻した。
　最近ヒコといると何をしていてもカカシを思い出す。どれだけ好きなんだと自分を嗤ってから、物思いにふけらないよう気を引き締めた。
　何かヒコの喜ぶことを。そう考えて、ふっと閃いた。
「そうだ。ヒコにも名前をつけてあげようか」
　ヒコはただの称号。
　けれどそれしか呼び方がないなんてあんまりだ。せめて名前で呼んでやりたい。イルカはそう考えた。良い考えのように思える。
「どんな名前がいい？」
　ヒコに尋ねると、俯いたまま黙り込んでいる。
　具合が悪いのかと心配で覗き込もうとすると、ぽつりと呟いた。
「……『カカシ』がいい」
「え？」
「『カカシ』ってなまえがいい！」
　イルカがヒコの反応に戸惑い何も言えないでいると、ふいっと視線をそらし縁側からぽーんと軽やかに庭へ飛び降りる。
「あっ、待って」
　呼び止めたが振り返らずに行ってしまった。
「ヒコの奴、どうしたんでしょう」
　戸惑うイルカがアスマに相談すると、彼は豪快に笑って答える。
「初恋ってやつだな」
「え？」
「お前が『カカシ、カカシ』って言うから、『カカシ』という名前になれば好きになってもらえるとでも思ったんだろ」
「そんな……」
　慕われているのはわかっていたが、まさかそんな意味だとは思っていなかったイルカは、更に戸惑いを増す。
　放っておけばいいさとアスマは気楽に言っているが、そんなものだろうか。だからといって碌に意思表示もできない子供相手に『恋人がいるから付き合えません』と真面目に断るのも如何なものか。
　困ったなぁとイルカは溜息をついた。



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2008.05.18初出
2012.03.31再録