【無何有の郷(むかうのさと)6】


 ある日。いつも天候の良い空に珍しく暗雲が立ちこめていた。
 嵐でもくるのかとイルカが空を見上げている時、轟音と共に大地が揺れた。
「地震!?」
「違う。それより悪いっ」
 空が裂け、暗い虚無が向こう側に見えた。
 まだ神の子が居るのに新しい神の子を作ったから均衡が崩れた。
 急いだのが悪かったのだろう。彼女らは自分たちの力を過信しすぎて配分を誤ったのだ。
 この世界が崩れ落ちる。誰もがそう直感した。
「逃げるぞ、イルカ」
「はいっ」
 アスマの怪我はまだ治ってはいなかったが、そうも言ってはいられない状況だった。それでもずいぶん快復に向かっていたのでなんとか走ることはできる。
けれど、ヒコの小さな手でイルカの服の裾を握りしめられた時、イルカの足が止まった。
「イルカせんせい、どこいくの? いっしょにいく!」
 どうしたらいいのかイルカにはわからなかった。
 ここに置いていくことはできない。けれど、連れていくことだってできはしないのだ。
「外に出たら死んでしまうんだよ」
「つれてって」
 縋るような瞳に見つめられ、イルカは裾を握りしめられた手を振り払うことができないでいる。
 困り果て一歩も動かないイルカに、アスマが言った。
「イルカ。外に出たら死ぬと連中は言っていたが、それが本当かどうか俺たちには確かめる術がない。だが、どう考えても此処は崩壊する。外に出ても生きられない、ここに留まっても生きられない。どっちにしても生きられないのなら、そいつの望むようにしてやれ」
 ヒコは外に出ることを望んでいる。
 いや、イルカと共に行くことを望んでいると言った方が正確だろう。
 ヒコの瞳を見つめ、イルカは決意した。
「わかった、一緒に行こう。手を離したら駄目だぞ」
「うんっ」
 ヒコを抱きかかえて屋敷を出た。
 目の前にある吊り橋を渡り始めたまさにその瞬間、足元から橋が崩れ落ちていく。
 走り抜けようとしたが、崩壊の速度が予想以上に速く、空中に放り出される形になった。
 ヒコの手を離すまいとぎゅっと握りしめた瞬間、空間がぐにゃりと曲がった。




 イルカは暗闇で鈴の音を聞いた気がした。
 誰かの腕に引っ張り上げられるまで、小さな木ノ葉のように翻弄されほとんど息が出来なかった。
「イルカ先生! 無事でよかった……」
 耳に届いた声は、懐かしいと思うほど長く待ち望んでいた恋人の声だった。
「カカシ先生……? どうしてここに……」
「戻ってきてくれて、本当によかった」
 イルカの疑問にカカシは答えてくれず、ぐっと抱き寄せられる。
 あまりにもたくさんのことがありすぎて、うまく考えがまとまらなかった。けれど、カカシの肩越しに見た景色から察するに、ここはあの雨の襲撃の場所からそれほど離れているわけではないとわかる。
 それではあれは本当に異世界だったのだ、とイルカはぼんやり考えていた。無事に戻ってこられたことが信じられなかった。
 しばらくカカシに抱きしめられるままでいたが、だんだんと頭が明確に働き始めてはっとなった。
 自分のことしか考えていなかったが、他の人たちは無事なのだろうか。
 カカシの腕の中で周囲を見渡そうと身を捩ると、カカシが気づいて腕の力を緩めてくれた。
「アスマだったらそこに転がってますよ。体力だけが取り柄の熊だから大丈夫」
「熊だなんて……」
 イルカはカカシの言い様を咎めながら、ヒコを探す。
 しかし、どこにもそれらしい姿は見つけられない。アスマの姿は目に入るのに。
「イルカ先生?」
「子供が……子供がいませんでしたか? 小さい子なんです、五歳ぐらいの……」
 震える声にカカシは首を横に振る。
 それではここへ連れてくることはできなかったのか。どこかで一人ぼっちでその小さな命を散らしてしまったのか。
「手を……」
「え?」
「手を離してしまった……っ」
 連れて行くと約束したのに。
 あれだけしっかりと手を握りしめていたはずなのに。
 名前も付けてあげられなかった。
 なぜ自分はこうも無力なのだろう。
 イルカは震える唇を手で押さえたが、溢れる涙は止められなかった。落ち着くようにと背中を撫でる優しい手すら涙を促してどうしようもない。
「ねぇ、イルカ先生。大丈夫ですよ。今頃はちゃんと義父に拾われてますから。と言っても、もう二十年も前の話だから、今頃というのは変かもしれないけど」
 カカシが笑う。
 優しく髪を撫でられながら、その言葉の意味をイルカは考える。
 二十年前に拾われた。いったい誰が?
 義父というからには、カカシの義父・サクモにということ。その話がなぜ今?
 そして思い至った結論に愕然とする。
「もしかしてあの子は……ヒコは、カカシ先生だったんですか?」
「はい」
 少しはにかむように笑う仕草。まるでヒコ本人のように。
 あまりの衝撃に、イルカの涙は止まっていた。



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2008.05.18初出
2012.04.14再録



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