【だれも知らない泣き虫のあなた・前編】


その日は残業で、帰る頃にはもう辺りは夜のとばりが降りていた。
明日は休みだし急ぐことはない。
ちょうど晴れた夜空には満月がでている。綺麗な月を眺めながらのんびり帰ろうと、そぞろ歩きを楽しんでいるときだった。
人の気配がする。
風に乗ってかすかな血の匂いがして、気を引き締めた。
もしかしたら侵入者かもしれない。
気配を断って慎重に近づいてみると、道をそれた原っぱにぽつんと座っている銀髪の後ろ姿が見えた。
あれは…カカシ先生?
あの猫背は見間違いようがない。
ナルトの担当教官で、それほど言葉を交わしたことがあるわけではないが、外見の特徴ですぐわかった。
おそらく上忍としての任務の帰りなのだろう。
血の匂いは本当にかすかなもので、本人が怪我をしているという風でもなかった。
ただ休んでいるだけかもしれない。
一人でいるところを邪魔しない方がいいとわかっていたが、なんとなくその後ろ姿が放っておけない気がして、つい声をかけてしまった。
「カカシ先生。任務の帰りですか?お疲れさまです」
俺の声に反応して、ゆっくりと振り向いた顔を見て驚いた。
普段は額あてと口布で隠されている顔が、全て露わになっている。
初めて見る端正な顔。左半分に走る古い傷跡。
けれど、驚いたのはそんなことではなかった。
「ああ、イルカ先生」
いつも通りの笑顔なのに、涙が左眼から頬へと伝って落ちる。
右眼からはまったく一滴すら流れる気配はなく、涙は左眼からしか流れていない。
表情は落ち着いていて、とても涙を流す雰囲気とは思えない。
それでも伝う涙。
異様な光景にも関わらず、綺麗だと思った。
その紅い焔も、ひそやかに流れ落ちる雫も。
それが写輪眼だという認識もその時にはなく、目を奪われていた。
それに抗って会話をするのは、かなりの努力を要した。
「どうしたんですか?どこか痛むんですか」
「いいえ、どこも」
笑ったまま否定される。
「任務が終わった後は、たまにこうなるんです」
俺の方を向いていた視線がふと逸らされ、周りの景色に戻る。
「だから人気のないところでぼんやりして過ごすのが習慣で」
静かなる孤独。
いつもこんな風にたった一人で過ごすのか。
俺が近づいてきたのは思わぬ事で、邪魔だと感じているかもしれない、とは思った。
けれど、気温が低いわけでもないのになぜか寒さを感じているように見えた。
側にいてあげたい、と思ったのだった。
「一緒に月見をしてもいいですか?」
「いいですね」
誘いを断られなかったことに安堵し、隣に腰を降ろす。
「ああ。本当にいい月ですね」
気持ちよさそうに眼が細められ、口の端が笑みを浮かべた。
見上げた夜空には大きな満月。
月の光に照らされながら、ただ黙って座っていた。
沈黙はけして重くのしかからず、穏やかに時が流れていった。
けれどやはり気になるのは先ほどからの涙で。
写輪眼を使いすぎて涙が出るのだろうか。
そっと様子を伺うと、涙はまだ流れていたが、表情に変化はなかった。本当に痛むわけではないらしい。
頬に細い朱線が一本入っているのが見えて、きっとどこかで掠った傷なのだと思った。
ハンカチを出して拭おうとして、躊躇った。
いきなり触れようとすれば警戒されるかもしれない。
上忍なのだから。
一言声をかけるべきだろうと思った。
「あの、頬が染みませんか?」
「え?」
「左の頬にかすり傷が……涙で染みないかと思って」
「ああ。気づきませんでした」
そう言って、腕で拭おうとする。
「駄目ですよ。雑菌が入ったらどうするんですか。ちょっと動かないでくださいね」
傷を拭えば、本当にかすり傷で、これなら大丈夫かとは思ったが。
「念のため、消毒です」
ぺろりと頬を舐めると眼を見開いて驚かれた。
ああ、しまった。
いつも子供達にするようなことを。
気を悪くしてしまったかも、と気を揉んでいたら。
「ありがとうございます」
と微笑まれて安堵した。
いつの間にか涙は止まっていて、ああ、よかったと思った。
流れ落ちる涙は綺麗だったけど。
それでも泣いている姿は自分の心臓にもよくない気がする。
本当によかった、と。
心から思った。
それが俺にとってのはじまりだった。


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2002.09.28


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