冷たさと優しさの間で 「イルカ先生、好きです!! おつきあいしてください!!」 放課後のアカデミーの校庭で、忍び世界にその名も轟くはたけカカシがアカデミー教師の中忍、うみのイルカに告白したという噂は、その日のうちに木の葉の里を駆け巡った。 上忍の恋人、あわよくば妻の座を狙っていたくのいちや、特別報酬は見込めないが安定し家庭を大事にすることにおいては里一であろうとイルカを狙っていた女性陣は、この噂に大いに落胆した。 噂は噂でしかないと強気だったくのいちたちも、翌日からのカカシのでれでれっぷりに噂ではなく、事実だったとハンカチを噛み締めるしかなかった。 「イルカせんせーい、お昼一緒にしましょう?」 翌日からカカシの昼食通いが始まった。 下忍たちに昼休憩を言い渡して自分はイルカの元へと日参する。 カカシの怒りを買いたくない同僚たちはイルカをそそくさと送り出した。 アカデミーに隣接する演習場の楓の木の下でカカシが広げたお弁当は、木の葉の里、いや火の国にその名の知られた高級料亭「静の屋」の高級弁当だった。 3段の重箱にお吸い物と果物がつき、一人前でイルカたち庶民の食事代の1週間分は優に超えるという懐に余裕がある人間しか相手にしない弁当だった。 「ここのはおいしいんですよ。お好きなのからどうぞ」 小皿と割り箸を差し出すカカシに、イルカは、 「昨日言いましたよね。価値観が一緒の人でないと困ります、って」 と腕組みをしたまま言った。 「え? イルカ先生は静の屋のお弁当、お好きじゃないんですか?」 「好きも嫌いも、食べたことがありませんからね」 でも、とイルカは続けた。 「このお弁当がとんでもなく高いということは知っています。俺たち中忍の給料じゃ一生に一度、結婚式か葬式のときにしか食べられないような弁当ですよ」 それを聞いてカカシの顔色は一瞬にして青く色を変えた。 「ご、ごめんなさいっ! そうとは知らずにこんなものを買ってきてしまって。返してきます!!」 ダッシュで駆け出そうとするカカシをイルカの手が引き止めた。 「いまさら返しても向こうも困るだけでしょう。この弁当には罪はないんですから食べましょう」 あなたには罪はあるんですよ、とカカシには聞こえた。 好きですと告白したカカシに、イルカはなぜ好きと言えるのですかと聞いた。 「あなたの笑顔に癒されました! ナルトもあなたには全幅の信頼を置いている。信頼できる人だと思いました」 またか、と正直イルカはうんざりだった。 外見しか見ずに自分の理想を押し付けてくる人のなんと多いことか。 そして、いざ付き合ってみると、「あなたがそんな人だとは思わなかった!」と勝手に幻滅して去っていく。 好きで笑ってるわけじゃない。 任務受付が少しでもスムーズに行くために、外に出て里を潤すことができないなら里の中で自分のできるだけのことをしようとした結果、「優しい人」「穏やかな人」と勘違いする人間がなんと多いことか。 この上忍もそうなのか、人の見かけにまんまと騙されて「あなたの笑顔が好きです」などと今のイルカが一番聞きたくない言葉を悪意なしに吐いてくる。 そのときイルカの機嫌は最悪だった。 だから、笑顔がどうのこうのといってくる人間には丁重にお引取りいただいているところを、受けてしまった。 いいですよ、だけど、 「…俺、身近な人には容赦ないんですよね」 それでもいいと言ったのはカカシだった。 そして、その言葉の真実を知ることになる。 イルカはその言葉通り、容赦のない人間だった。 階級に遠慮することなく歯に衣着せずずけずけとものを言うし、自分の仕事には決して妥協しない。 カカシがイルカに興味を持ったのは、ナルトたちがイルカを慕っているのを身近で見たのが始まりだったが、ナルトたちに向ける本当の笑顔を自分にも向けてほしいと思ったのが恋の始まりだったかもしれない。 任務受付所での笑顔は何か嘘っぽかった。 しかし、子どもたちに向けるものは、本当に心の底からあったかくなるようなものだったのだ。 凍えていた体が暖められるような、万年雪を溶かすような、そんな笑顔だった。 カカシはいつかイルカが本当に自分に笑ってくれるようになればいいなと彼なりにがんばった。 高級料亭の弁当を持っていっては玉砕し、手作りの料理を作っては食材が不経済だといわれ、冷蔵庫が壊れたので新しいものをプレゼントしようとすると、もらういわれがないとつき返される。 どんな高級品も、イルカの心を溶かすことはなかった。 ただ、ナルトたちの話を聞くときだけ、イルカは笑う。 カカシはイルカが強情で融通がきかないとわかってはきた。 そして知れば知るほど、いつか本当の笑顔を見てやるのだと燃えた。 初め、イルカはカカシに対して愛情も興味も持ってはいなかった。 ナルトたちの指導教官。 ただそれだけの関係。 それなのにいきなり好きだといわれ、たまたま虫の居所が悪かったせいもあって、いつまで俺を好きといえるか試してみやがれ! というやけっぱちな気持ちでうなずいた。 普通上忍にそれはないんじゃないかという態度で接してもカカシはへこたれない。 ごめんなさい、としゅんとして、それをみると、なんだか悪いのが自分のほうのような気がしてずるずると関係を続けてしまった。 カカシはいい人だと思う。 上忍にしておくには惜しいほど、可愛げのある人だ。 俺の業務用の笑顔になんか引っかからなければ、本当に優しい人と恋人になれたかもしれないのに、なんて運が悪いんだ、とイルカは人事ながら気の毒になった。 こんなに押しが弱くたかだか中忍に言いたい放題言われても反論すらできないでよく上忍が勤まってきたな、と思う。 ちょっとは俺が鍛えてもっと強くしてやらなければ、とさえ思う。 いつの間にかカカシはイルカの中で特別な存在になっていた。 「え? 里外任務ですか?!」 「はい」 イルカの家で夕飯を取りながら、驚きのあまりカカシは箸を取り落とした。 今晩の献立は鯵の開きと間引き菜のおひたし、ささがきごぼうとにんじんと大根の味噌汁、ひじき煮にご飯だった。 付きあい出した当初は高級霜降り牛を2キロ買ってきたり天然鯛を生簀ごと運ばせたりしてイルカの厳しい指導を受けたカカシだったが、最近はごくごく普通の食事がわかるようになってきた。 イルカからの指導もなくなった。 カカシが作った夕飯の席に黙ってついてもくもくと食べる。 それはおいしいからだとカカシにはわかっている。 本当にまずいときはイルカは手もつけないのだ。 「どれくらい? どこへですか? 内勤のはずのあなたがどうして!!」 だんだんと興奮してくるのが自分でもわかった。 まずいな、と思うがとめられない。 だって、イルカはいつも里で笑っているはずだった。 任務を受けることがないとは言わないが、手紙を届けるなどのお使い程度のもので、カカシが知る限り里外への任務はない。 イルカはナルトに対しての鍵だ。 ナルトの封印の安定は今のところイルカに大きく拠っている。 それもあって、イルカはずっと里に留め置かれているというのに、なぜいまさら。 「1週間、水の国に行ってきます。あそこのアカデミーで事務処理にパソコンが導入されたそうなんですが、誰も堪能ではないんです。予算が下りて機械が届いてそれで終わり。お役所仕事の典型です。でも、使いこなさなければならない。そこで、1週間、現地で初歩から教えることになりました」 危険性はほとんどないことにカカシはほっとするが、 「なにもあなたでなくても」 とぐちがこぼれる。 「俺がまあまあパソコンを使えるからでしょうね」 「でも、どうするんですか。あなた担任してるでしょう?」 イルカは今期火影の孫の木の葉丸たちの担任だ。 1週間もほっておくわけにはいくまい。 「影分身を置いていきます」 「え?」 「俺、影分身は得意なんですよね。火影様も見分けがつかないくらいですよ」 少し得意そうにイルカは言った。 イルカが感情を見せてくれるのが嬉しくて、カカシは「俺にもわかりませんかねえ」と目を細めた。 「明日、早朝に出立します。興味がおありならいつものように来てみてはいかがですか?」 イルカがいない間もこの家に来ていいという許しを得て、カカシは飛び上がりそうなほど嬉しかった。 「じゃあ、明日はおろし鍋にしましょうか」 「冷凍庫にたらの切り身があるのでそれを使ってください」 はい、と返事をし、落とした箸を拾ってカカシは食事を再開した。 翌日。 任務報告を出して、恐る恐るカカシはイルカの家にやってきた。 昨日イルカから特別な計らいを受けて舞い上がってしまったが、聞き間違いだったらどうしよう。 訪ねていって「あなたどなた」と言われたらどうしよう。 社交辞令も解さない、なんて無粋な、と思われたらどうしよう。 イルカに関してはカカシはとても臆病だった。 任務では即断即決の上忍が、中忍一人の思惑を気にして右往左往する。 かれこれ30分余り玄関の前でためらい、カカシは思い切って引き戸に手をかけた。 イルカの家の玄関には充分人を失神させるだけの電流が流れていて、付き合い出したときは、カカシも数分間、玄関先で倒れていたことがあった。 最近はカカシのチャクラに反応して中に通してくれるようになったが、イルカの家は火影屋敷もかくやとばかり、要塞並の防御が張り巡らされていた。 息をつめて、ほんのわずかな異常でもすぐに反応できるように戸にそっと手をかける。 つめていた息を吐きながら、カカシは戸を引いた。 異常なし。 しかし、まだ油断できない。 上がり口から居間まで、そっと歩く。 以前、「ごめんください」やら「こんにちは」やら、挨拶をしないで入っていってひどい目にあったことがあるのだ。 「挨拶は人間関係の基本です」とずぶぬれになったうえに丸焼けになりかかったカカシにイルカはしれっと言ったものだ。 以後、イルカに対する挨拶は欠かしたことはない。 何事もなく居間にたどり着き、ちゃぶ台の上にB4の紙を見つけたカカシはそれを読んで笑った。 そこには、冷蔵庫の中にある食材の一覧と庭の草木への水遣りをお願いすると書かれてあった。 影分身にはアカデミーと任務受付報告書での業務については滞りなく記憶と能力を移したが、それ以上の日常生活(食べることや掃除することなど)は容量不足でどうしようもないらしい。 カカシは俄然張り切った。 こちらのイルカ先生にもおいしいご飯を食べてもらおうじゃないか! そして、イルカが帰ってきたときに一言でもほめてもらえたらいいなあ、と思った。 二人分のおろし鍋。ジャガイモとにんじんとごぼうとちくわとサヤインゲンのきんぴら。大根葉のごま油炒め。 イルカと付き合うようになってカカシは非常に経済的な料理が得意になった。 高いお金を出せばおいしいのは当たり前。いかに安くいかにおいしく作るかにイルカは価値を置いていた。 お金にあかせて高級食材を買い込んでイルカにこぴどくしかられたカカシは、ふと見たテレビの3分クッキングで「手軽にできる残り物利用」を試してみた。 秋サバの野菜あんかけとご飯と味噌汁と野菜の皮のきんぴら。 それだけだったのに、初めてイルカはカカシに「おいしいですね」と笑った。 その笑顔にカカシは胸を打ちぬかれた。 再度惚れ直した。 「容赦ないですよ」と言ったとおり、イルカはカカシに本当に情けをかけなかったが、それだけにイルカの些細なあれこれがカカシにはとても嬉しかった。 食卓の用意がすべて整い、さて、お茶でも飲んで待とうかと思ったときに、影分身のイルカが帰ってきた。 鍵を出そうとして戸が開いていることに気づき、あわてて飛び込んできた。 「お帰りなさい」 「す、すみません、カカシ先生!!」 居間で座ってくつろいでいるカカシと荷物を下げて慌てふためいているイルカ。 イルカの言葉通り、オリジナルとそっくり同じというわけではないようだった。 「申し訳ありません! 上忍の方にこんなことまでしていただいて!!」 影分身のイルカは焦って頭を下げた。 初めて見るイルカの姿にこそばゆいものを感じながら、 「いいですよ〜。今までだってやってきたんですから。 イルカ先生から許可は取ってありますから」 とB4の紙をひらひらとさせ、 「冷めるから食べましょう」 と促すカカシに、影分身のイルカは「じゃ、じゃあ手を洗ってきます!」と洗面所に飛んでいった。 ずいぶんと可愛い性格だねえ、とカカシは面映さを感じながらご飯をよそいに立った。 里に残ったイルカはアカデミーと任務受付報告書の仕事が滞りなく行えるための知識や性格を与えられてはいたが、それ以外はカカシの知るイルカとは大分違っていた。 階級が上のカカシに遠慮をし、気を配る。 「好きでやってるから」というと、「じゃあ自分もお手伝いします!」と宣言して本当に台所に立った。 二人で作って二人で食べて二人で片付ける。 イルカの帰りが遅くてカカシだけで作ったときは、 「カカシ先生は休んでてください!」と後片付けを譲らない。 手持ち無沙汰で居間で寝転んでいると、お茶とせんべいとみかんをお盆に載せて持ってくる。 まるで夢のような生活だった。 イルカは優しくいつもニコニコ笑っている。 カカシに声を荒げることもなければ持ち帰った仕事のためにカカシをないがしろにすることもなかった。 かばんからプリントが顔を覗かせているのは見えたが、このときとばかりにカカシは月見酒をねだった。 眉の八の字にして笑いながら、イルカは燗をつけ、たこの塩辛やらトリレバーと一緒にカカシの前に置いた。 こんなこと、本物のイルカ先生とはしたことなかったなあとカカシはお猪口を傾けた。 自分の仕事を後回しにしてまでカカシに付き合うようなことはしなかった。 そう考えると、この影分身のイルカになにやら悪いような気もするし、本物がいないこの隙に付け込んで存分に思い通りになるイルカを堪能しておけばいいとも思う。 思い通りになるイルカ? 自分で考えたことにカカシはギクッとした。自分は思い通りになるイルカがほしいのか。 従順で優しくて自分のことよりもカカシのほうを優先するイルカがいいのか。 イルカに求めたものは何なのか。 カカシは熱燗を前に考え込んだ。 1週間目の夕方。 今日はイルカが帰ってくる日だ。影分身のイルカとは昨夜ちょっと贅沢をして近海ものの鯛の刺身とかぶと煮でカカシなりの別れをした。 玄関の引き戸に手をかけると、ピリッと指先を刺すものがある。 懐かしいイルカのチャクラだ。 ああ、帰ってきている、と勢いよく家の中に駆け込んだ。 「お帰りなさい!」 「お帰りなさい」 居間では食卓の用意が全部整えられており、台所のほうからイルカがカカシの声に返事をした。 そちらのほうへ足を向けたカカシの鼻先に、なべを持ったイルカが台所から現れた。 「イルカ先生!」 と抱きつこうとしたカカシになべをぬっと突き出して、 「持っていってください」 とイルカは言った。 それにきょとんと固まって、次の瞬間、カカシは笑い出した。 「なに笑ってるんですか」と怪訝そうなイルカに、ああ本当にイルカ先生だと思う。 言いたいことは中忍上忍関係なしでずばずば言う。 上忍のカカシを使う。 木の葉の里広しといえど、イルカのような中忍はいない。 見かけが優しい人も本当に優しい人も数いる中で、人にも自分にも厳しく容赦のないイルカのような存在はまれだ。 けれど、任務帰りの疲れているだろう体でカカシの分も夕飯を作ってくれている。 イルカの中にカカシの居場所を作ってくれている。 イルカの手からなべを受け取って、カカシは触れた指先が嬉しいと思った。 なべ敷きの上になべを置いてから小鉢を出したり湯飲みを出したりと動いていると、イルカがおひつを持って入ってきた。 自然にそれを受け取り、茶碗にご飯をよそう。 お茶を入れ、漬物を出し、カカシは準備万端整った食卓で正座をしてイルカを待った。 イルカは流しが乱雑になっているのを嫌う。 使ったもので洗えるものは食べる前に洗ってしまうのがイルカのやり方だった。 ご飯が冷めてしまいますよ、と一度言ったことがあるが、「俺の家では俺のやり方でいいんです」と取り合ってもらえなかった。 その代わり、イルカがカカシの家にきたときはイルカはカカシのやり方に手も口も出さない。 個人として尊重されているのか、ほって置かれているのか、判断に悩むところもあったが、もう構わないとカカシは思うようになった。 そばにいることを許されて一緒にご飯を食べてくれる。 それ以上、何を望むことがあるだろうか。 自分にも人にも厳しいこの人がそば近くにいることを許してくれている。 それだけでも幸いというべきだろう。 「変な人ですね。何、人の顔を見て笑ってるんですか」 お茶碗を置きながら、イルカは言った。 「俺のイルカ先生は天下一素敵だなあと惚れ直してました」 「あんたのものになった覚えはありません」 俺はおれ自身のものですよ、と聞こえてきそうな憮然とした面持ちでイルカは再びご飯を食べ始めた。 個人としてしっかり立っているこの人がとんでもなく優しいことを知っている。 自分の体を投げ出してまでナルトを救ったような人だ。 「これからもどんどん厳しく指導してくださいね」 そんな人から優しくされるのではなく、ほって置かれたり言いたいことを言われたりするのは、分け隔てのない愛のように感じられた。 「上忍に指導するほど暇じゃありません」 あくまでもイルカは素っ気ない。 しかし、そのイルカにカカシはすっかり慣らされてしまった。 ああ、いつものイルカ先生だー、とついつい笑顔がこぼれる。 「イルカせんせーい」 抱きついて、イルカから「何するんですか! 食事中です!」と頭を向こうに押しやられても、カカシは笑っていた。 容赦のないこのイルカこそが、カカシの好きになったイルカだった。 えへへ、と畳の上に転がされても笑っているカカシに、 「食べてすぐ寝ると牛になりますよ」 と一言投げかけてイルカは再び自分の食事を始めた。 のイルカを下から見上げながら、カカシは自分の幸せを思ったのだった。 「イルカ先生、大好き」 完全に聞こえているはずなのに無視を決め込まれてもカカシは笑った。 パタンと手を伸ばしてイルカの膝小僧に触れる。 指先から伝わってくるイルカのぬくもりに、カカシはうっとりと目を閉じた。 「片づけがまだですよ。寝たら放り出しますからね」 という声を聞きながら、カカシは意識を手放した。 イルカのそばでは自分を偽らなくてもいい。 ありのままの自分でいい。 イルカのそばでカカシは心からの深い安心を味わった。 後日談。 有言実行のイルカは眠り込んでしまったカカシを言葉どおり外に放り出したのだった。 |