すすきの原 ススキの野原でカカシは座り込んでいた。 もうイルカ先生なんて知らない! と口を尖らせて手で草をぶちぶちと引きちぎっていた。 発端は今日の夕方。 イルカと夕飯の約束を取り付けてカカシはどれだけこの日が来るのを楽しみにしていたことだろう。 いつもは見ないカレンダーに丸をつけて、毎朝、毎晩指折り数えて待っていた。 だって、イルカ先生は忙しい。 アカデミーの行事は終わるときを知らず、いつ行っても残業をしている。 珍しく職員室にいないから今日は大丈夫かと思ったら火影の用事で席をはずしているという。 3代目のころから秘書まがいなことをやらされていたイルカは、5代目になってもこまごまとした用事で呼びつけられる。ふらっと行ってたやすく誘える相手ではないのだ。 だが、約束をしていれば律儀なイルカは融通をつけてそのときは必ず体を開けてくれている。 それを知ったカカシはたびたびイルカと約束をして楽しいひと時を過ごしていたが、仕事が本当に立て込んでいるときはカカシと別れてまたアカデミーに戻って明け方まで仕事の続きをしていたと知って、約束はイルカの暇なときを見計らって月に1〜2回程度にすることに決めた。断腸の思いで、だ。 そんなめったにやってこないイルカとの約束の日が、今日だったのだ。 カカシは朝から、いや、1週間前から浮かれていた。 この日のために困難なA級任務を先週までにどんどん入れ、火影にこの日だけはなにがあっても個人任務は入れないと約束させた。 今週に入ってからは体調に気を配り、早寝早起き栄養満点の食事に気を配った。だって、やっとつかんだイルカとの逢瀬を風邪などのために台無しにしたくはないではないか。 そして、いよいよやってきた今日というこの日。 カカシは朝からハイテンションだった。 集合時刻の1時間前にはやってきて、自ら子どもたちの任務に手を出し口を出し、3時のおやつの時間には任務は終了。子どもたちと甘味処で団子を食べていた。 カカシの頭の中には今夜のイルカとの楽しい時間が浮遊していた。 それなのに、あの人はっ! カカシは再び胸にこみ上げて来るものに胸をこぶしで押さえた。 イルカのシフトにあわせて任務報告書を出しに行ったカカシたちをイルカは笑顔で迎えてくれた。 「最近7班の任務が早くなったと評判ですよ」 とニコニコと笑ってくれた。 カカシ先生が遅刻さえしなければ当たり前だっつーの! と横でサクラたちが顔を見合わせているにもかかわらず、 「そりゃあ、大事な用がありますからね」 あなたとのね、と子どもたちには聞こえないようにイルカだけに届くようにカカシは言った。 イルカの頬がさっと染まる。 その反応にカカシは手ごたえを感じた。 今日はいけるかもしれない! 鼻息も荒くなる。 「なあなあ、一楽、イルカ先生、行こーよー」 そのとき、ナルトが机に身を乗り出してねだった。 「このごろずっと忙しいって全然一緒にいられないじゃん。俺さ、俺さ、きょうすっげーがんばったんだってばよ! イルカ先生に教えたら絶対喜んでくれると思って…」 あ、やばい、とカカシは思った。 イルカは子どもに弱い。 その中でもナルトには担任と子どもという枠を超えたものを感じる。 ナルト自身を認める人間も増えてきたが、ナルトにとってイルカは特別な存在なのだ。そして、また、イルカにとっても… しかし、約束はカカシのほうが先である。 一月前からこの日のために精進潔斎してきた。 そんなカカシの努力も思いも、すべてナルトの前には意味を持たないのか。 イルカが息を吸い込んだ。 その口から出る言葉を聞きたくはなかった。 「いいぞー。最近がんばってるもんな。カカシ先生もご一緒に」 イルカはためらうそぶりも見せなかった。 1ヶ月間のカカシの思いはナルトの前に崩れ去った。 一緒だなんていやだ。約束したのはこっちが先なのに、どうして自分が我慢しなくちゃならない? もし自分が子どもなら癇癪を起こして暴れていただろう。 だが、自分は大人だ。 大人だが、イルカに関しては心が狭くなる。 ご一緒に、といわれて、はいそうですかとうなずけるわけがなかった。 「イルカ先生がナルトと行きたいならご一緒にいけばいいでしょ」 捨て台詞以外何ものでもない言葉が口から出てきた。 イルカが目を見開いている。 自分でもあまりの狭量さにいたたまれなくなって印を結んだ。 ススキの原に逃げ込んで、それでも自分は悪くない、とカカシは膝を抱える。 どれだけ今日という日を楽しみにしていたか。 待って待って、やっと迎えたこの日に何もナルトを優先しなくてもいいではないか。 夕日がススキを染め上げる。 カカシの腹がグーと鳴いた。 本当なら今ごろはイルカと差し向かいで楽しくやっていたはずなのに、暮れ色が混じり始めたススキの中にうずくまっている自分がなおいっそう哀れだった。 「カカシさん」 背後からイルカが名を呼んだ。 あんな消え方をしたら人のいいイルカが追いかけてくるのはわかっていたし、期待もしていた。だから痕跡をわざと消さずにこの原に逃げ込んだ。 少し困らせてやりたかった。 「イルカ先生は俺との約束よりナルトの方が大事なんでしょう? どうぞ、ナルトのところにいってやってよ」 困らせて、でもやっぱりナルトはカカシの可愛い部下でもあるのだから今回は譲ってやろう、とそう思っていた。 目の前に火花が散った。 その後から猛烈な痛みが頭に走った。 「痛い…」 思わず頭を抱えるカカシに、イルカは、 「当たり前です。痛いように殴ったんですから」 と腰に手を当てて言ってのけた。 「あなたとナルトを秤にかけるようなことをしてほしいんですか?」 それはいやだった。 秤がナルトの方に傾くかもしれないから。 「あなたとの約束はちゃんと覚えていますし、守ります。でも、ナルトだって大事なのはわかってるでしょう?」 お付き合いしてくださいといったときに、イルカにとってナルトがどんな存在であるかは聞かされてわかっていた。 わかっていたつもりだった。 イルカにとってナルトはただの子どもではなく、両親の形見とでも言うべき存在なのだ、と聞かされた。 上忍であったイルカの両親が最後まで守った4代目。その4代目が完成させようとしていたのがナルトの腹に九尾を封じ込める封印術だった。 イルカの両親がいなければ術半ばにして4代目は倒れたいたという。 「だから、ナルトは俺の父ちゃんと母ちゃんと4代目が最後の最後まで守った命なんです」 カカシにその話をしたイルカの目は輝いていた。 このことを知っているのは3代目と里の中でも数人の忍びしかいないという。 「小さいころは俺よりナルトの方を選んだって悔しく思ってたこともありました。でも、父ちゃんと母ちゃんが守った命なら俺にとってそれは二人の遺言でもあると思ったんです」 そう思えるようになるまでどれだけの葛藤がイルカの中であったか。 それを微塵も感じさせずにイルカはカカシに笑った。 「ナルトもあんたも大切なんだ。あんたみたいにどちらかを選べみたいな出方をされたら俺はどうしたらいいんですか?」 イルカは頭を垂れてこぶしを握り締めた。 その姿にカカシは頭の痛さも忘れて飛び上がった。 「ごめんなさい! 俺がわがままでした。ごめんなさい!!」 「ナルトたちと一緒に一楽に行った後で飲みに行きましょうって、言おうと思ってたんです。それでは駄目ですか?」 「とんでもない! それで十分です!!」 イルカの物悲しそうな目は心臓にものすごく悪かった。 どれだけこの人に悲しい思いをさせたんだろう、とカカシは我と我が身を呪った。 「帰りましょう」 イルカの手をとった。 振り払われるかと一瞬ヒヤッとしたが、イルカはカカシの手を握り返してくれた。 二人、手をつないでススキの原を歩く。 遠く山の稜線に最後の光を投げかけて太陽が沈んだ。 風が一気に寒さを増す。 だが、イルカとつないだカカシの手は暖かかった。 この手を握り締めていさえすれば、心も体も、すべてが暖かくなれるのだ、とカカシは思った。 これからも嫉妬したり見当違いな思い違いをしたりしてイルカを困らせるかもしれない。 悲しませるかもしれない。 それでも、この手は決して離せない。 「ごめんね」 ポツリといった言葉はススキの揺らぐ音にも掻き消えずにイルカの元に届いた。 こんな男でごめん。 あなたを好きになってごめん。 でも、あなたがいるから自分は「人」として生きていける。 立ち止まったカカシの顔をじっと見て、イルカはぐしゃぐしゃとその頭をかき回した。 そして、にっと笑った。 カカシも泣きそうに口の端を上げた。 そして、前を向いて歩き出す。 握った手を大きく振りながら。 子どもたちの待つ一楽へ。 |