ギフト
夕刻から降り出した雨は夜半前に雪に変わった。
イルカはダスターコートの襟をかき合わせた。取引先のビルを出て五分もしないうちに肩が真っ白になる。否応なく速まる足が赤信号で止まると、イルカの目にようやくきらびやかなイルミネーションが入ってきた。
無意識にコートのポケットに手を突っ込み、携帯を取る。画面の12月24日の日付も、そのせいかどこか普段より華やいだ空気の街も、自分には少し遠いものに感じた。
メールも電話の着信もないのを確かめ、イルカは白い息を吐いた。
――待ってますよ、と。
彼は言ったのだった。夕方のことだ。
「今日は会えそうにないです」
××駅前に八時という約束だった。急の仕事が入ってしまい、慌て半分失望半分でカカシに連絡すると、ワンコールで繋がった携帯の向こうで彼は笑っていた。
『待ってますよ』
「でも遅くなりそうだから」
『その、実は俺も時間に間に合わなくなっちゃってね。ちょうど連絡入れようとしてたところで』
「何時くらいになりそうなんです?」
『あと一時間位かなあ』
カカシのいる本社ビルから××駅までは三十分。イルカが直帰できたとして、どう頑張ってもカカシに一時間は待たせてしまう計算になった。
「風邪引かれたら大変だし、やっぱり残念だけど今日は」
ほんの半瞬の躊躇いがあって、答えはすぐに返ってきた。
『わかりました。仕事頑張ってください。ほどほどに』
「お互いね」
カカシの声は笑っていて、イルカは救われたような、どこか寂しいような気になった。
「それじゃあ」
『ええ、じゃあ。また』
そういえば次に逢う約束をしなかったと、イルカが気付いたのは信号が青に変わった時だった。
*****
「はたけさーん、彼女ですかァ?」
フロアに戻るなり居残っている連中が四方八方冷やかしてくる。カカシはわざとらしく肩を竦めてやった。
「うん、でも今夜は振られちゃった」
「ええーイブなのに?」
「仕事だって」
「冷たくないですか、それって」
「かなぁ」
「ですよ!つれない彼女なんかほっといて飲み行きましょう、飲み!」
「お前ら仕事残ってんだろ」
「うっ」
「しょうがないから手伝ってやる」
「ええっ!いいんですかっ!」
「そうだよなァ、振られた野郎同士仲良くしねえといけねえよなあ?」
すっかり帰り支度を整えた同僚にばしんと背中を叩かれた。口を歪めたその髭面をカカシは横目で睨め付けた。
「てめえ…」
「…相手は例の営業部のお兄ちゃんか?。残念だったなぁ、せっかく張り切って仕事終わらせたってのになぁ」
ニヤニヤ囁かれて思わずむっときた。
「こンのやろ…!」
「ほれ、お仕事お仕事」
カカシの舌打ちを嗤って躱し、アスマはひっひと肩を揺すって帰っていった。
「はたけさん俺たち仲良くしましょう!」
「うるさい、稟議だけやってやる。そしたら帰るからな」
しおしおと仕事に戻る後輩達に発破をかけて、カカシはぽんとデスクトップのキーを一つ叩いた。スリープしていたモニタが復帰する一瞬、そこに映ったカカシの顔に子供が悪戯を思い付いたような無邪気さが覗いた。
何気なく目をやった窓の外では冬の雨が細く糸を引いている。カカシはネクタイを少し弛めながら、ひょっとして雪になるだろうかと思った。
*****
一旦会社に戻ったイルカは時計を気にしながら仕事を片付け、終電まで数本残した電車に乗った。真っ暗な窓の下を白いまだらに覆われた街が流れていく。
イルカはドアの脇にもたれてポケットに手を突っ込んでいた。指先に当たる繊細な金属の感触を玩ぶ。細い銀色のそれは見た目の冷ややかさを失って、イルカの体温がすっかり移り温もっている。
カカシに贈りたくて買った指輪だった。けれども渡す機会と勇気に恵まれないまま、かれこれ一ヶ月イルカのポケットに忍んだままでいる。
渡すタイミングを量れずに、いっそクリスマスのプレゼントにしようと気合いを入れたのが二週間前。そのチャンスさえ反古にされた指輪は、所在なげに手の中で転がった。
例えば端的に愛しているという気持ちを伝えるのが、こんなにも難しいとは思わなかった。恐らく愛情表現には長けた部類に入るであろうカカシがイルカに差し伸べてくれるものに比べて、気の利いた言葉一つ持たない自分は、ただ彼を失望させるばかりのような気がしている。
(それでもなあ…。好きになっちゃったんだもんなあ…)
それを伝えるための指輪さえ渡し損ねているというのは、どうにも格好が悪かった。
手の中でころんころんと輪っかを転がす。
電車ががたんと減速した。アナウンスがイルカの下車駅の一つ手前を告げる。
カカシと待ち合わせていた駅だった。
イルカは外を睨み付けるようにしながら指輪を握り締めた。
――――待ってますよ、と。彼は。
電車がホームに滑り込む。
ドアが開いた途端、イルカは飛び出した。階段を駆け上り、駆け下り、もどかしく改札を走り抜けた。
終バスも行った後の閑散とした駅前ロータリーは、驚くほど静かだった。
イルカは白い息を忙しなく吐きながらその場に立ち尽くした。凍える風が頬にぶつかる。やみくもに高揚していた脳味噌がさあっと醒めた。
(そりゃそうだよ)
何かを期待していた自分がとてつもなく恥ずかしくなった。突っ立ったイルカの脇を、改札から出てきた数人のコート姿がタクシープールへと歩き去っていく。イルカはやたらと居心地の悪さを覚えて踵を返しかけた。
刹那、視界の端に見覚えのあるカタマリが入った。
「――え」
イルカは目を見開いた。バス停のベンチの端に、あるはずのないダスターコートの猫背がある。髪を時々風に遊ばせて、その男はぴくりとも動かない。
まさか。
「カカシさん?」
信じられない気持ちで呟き、イルカは頼りない足を踏み出した。途中誰かにぶつかり、「失礼」と機械的に口を動かしながらイルカはひたすら前だけを見つめた。
「カカシさん」
傍でやっと呼んだ声は妙な具合に掠れてしまった。ベンチに座り込んだカカシが振り返る。マフラーに顔半分埋めた男は、イルカの姿を見上げてそれは嬉しそうに相好を崩した。
「やあ、こんばんは」
「ど、どうして」
「待ってますって。言ったでしょ」
「でも」
「待ちたかったので勝手に待ってしまいました。すみません」
へへへ、と。謝る筋合いのないことを言って、端整な大人の貌の持ち主は子供のように顔いっぱいで笑った。イルカは驚愕から立ち直れず、ひとしきり目を丸くしたり口を開けたりした挙げ句「は」と一声発した。
「わあ、そこ雪が」
脱力して隣に尻を落としたイルカにカカシが慌てた。
「…ったくっ」
イルカはマフラーからはみ出した白い頬にぺちんと手を当てた。
「何時間こんなことしてたんですか」
「ええと三十分くらい?」
「嘘つけ」
ただでさえ血色の悪い頬は、触っているこっちが凍りそうだ。
「でも、ほら」
カカシはポケットの中の手を抜いて、イルカの手に何か握らせた。
「暖かいでしょ、カイロ」
まだあるんですよと、カカシはスラックスやらコートやらのあちこちを探っている。
「何と靴の先にも」
「あ、そう」
イルカはがくりと項垂れた。
「…俺が来なかったらどうするつもりだったんです」
「あー、タクシーで帰ろうかと」
「そうじゃなくてさ…」
「でも来たでしょ」
呆気に取られるイルカの隣でカカシは場違いなほど晴れ晴れと笑った。
「雪、積もりますかね。ホワイトクリスマスってやつですか」
ああ、ケーキ食いたい、などと呟きながら、そこにまるで面白いものでもあるように雪の舞うロータリーを眺めている。その手がまたポケットへと帰り、ひょいと何かを取り出した。使い捨てカイロではなかった。
「はい、プレゼント」
「え?」
手渡された、ラッピングも何もされていない黒のパスケース。イルカは思わずプレゼントだというそれと、前を向いたままのカカシの横顔を見比べてしまった。
「ええ?」
「ちなみに主役はそれじゃないんで」
「は?」
促されてパスケースを覗くと切符が四枚挟まっていた。暮れの日付が入った指定券だった。
「これ…」
「年末は温泉にでも行きたいって、言ってたでしょ」
そりゃあ何かの会話の流れでそんなことを口にした気もするが。
「本気にしたんですか?!」
「宿取ってますからその日は空けてくれると嬉しいなあ」
「あ、空けます。空けますけど」
問題はそこではなかった。
「……は」
イルカはパスケースを目線にかざして呆然とした。
「…無茶するなあ」
「切符、俺のも一緒だから忘れないで持って出て下さいよ」
「よく宿取れましたね…」
一体いつ手配したものか、カカシは「そこは、まあ」と含んだようににやりとしたが、安くついたはずもないことなどイルカにも解る。一見オーソドックスなパスケース一つ取っても、イルカのいい加減くたびれた自前とは質も値段も訳が違った。仕事以外には拘りも見せず、飄々と暮らす男がたまさか垣間見せる活力と資力に、いつもイルカは驚かされ、少なからず気後れを感じるのだった。
カカシに言わせれば「そこそこのキャリアを経たそこそこの年齢の無趣味の独身男」の懐とはそんなものらしい。イルカもその彼と同じ企業の社員であるはずだが、カカシが体現してみせる類の余裕はどこにもなく。
だからほんの少し考えてしまう。釣り合うとか不釣り合いだとかいうことについて。そして躊躇ってしまうのだった。イルカが上手いこと本音や気持ちを伝えられない原因はそこにあるのに違いなく、それを解っているからこそイルカは堂々巡りをしてしまうのだ。
ぐるぐるとメビウスの輪を辿り続ける思考回路が、ポケットの指輪の形になる。
雪は時折風に流されながら黙々と降り続けた。
もうほとんど真っ白く覆われたロータリーを二人は言葉もなく眺めていた。
「…帰らないんですか?」
「イルカさんこそ」
「明日も早いんでしょう」
「そうでもないです。メインが一つ片付いたので」
「例の提案書ですか?」
「ええまあ」
「そういえばこの間、そちらの主任から飲みに誘われましたよ」
「主任?」
そしてカカシは同僚の髭面を苦々しく思い出した。
「…断んなさい」
「そうなんですか?うちの補佐と本社の保険医の先生も見えられるそうだし、てっきり貴方も来るのかと」
それを聞いてますますカカシは渋い顔になる。補佐と保険医とはつまり、ガイと紅が一緒ということか。不吉だ、何という不吉な面子だ。
「絶対行ったらダメです」
眉間のしわに、イルカはくつくつと笑う。
「カカシさん」
「はい?」
「…ありがとうございました」
カカシは一瞬素に近い生真面目な表情(かお)をし、ふっと破顔してイルカのこめかみに口付けた。
「どういたしまして」
いつもの人目を気にする素振りが嘘のようにイルカは微笑い返した。深夜の、しかも雪の降るロータリーは家路を急ぐ人影がぽつぽつとあるばかりだ。どうせ誰も見てなどいない。
(見られたところで)
そうしてイルカは凍えきったカカシの唇を吸った。氷を溶かす思いで啄むとカカシがくぐもった笑いを漏らした。囁き合うような口付けを交わしながら、イルカはコートの上から指輪のしまわれている辺りに触れた。
恐らく差し出すなら今なのだろうけれど。せめてカカシにプレゼントをせがまれたならとさえ思うのだけれど。カカシはそれについて触れる気配すら見せない。
何より、満たされるのが度を超すと、それだけで一杯になってしまってタイミングを逃すこともあるのだ。
結局その夜、指輪がポケットから出されることはなかった。
イルカが勇気を振り絞るのは、まだ少し先の話である。
end.
2003.12.17
2005.02.12 改訂 |