ギフト2


 鼻先で空気が揺らぎ、イルカはうっすらと醒めた。瞼が薄く持ち上がるより先に馴染んだ匂いをかぐ。
 少し仰向くと、はっとするほどの距離にカカシの寝顔があった。熟睡しているらしい、イルカを抱き込むようにしてぴくりともしない。
 身動げば真新しいシーツを身体の下に感じた。さらさらと気持ち良いのは、汗だくだったはずのイルカの躯も同じで、カカシが拭ってくれたのだろうかと、靄の掛かった頭で考えた。
 常夜灯だけが灯るほの暗い部屋は、外界とは無縁の静けさに沈んでいる。
 かすかに漂う清潔なリネンの香りに、イルカはここが自室でもカカシの部屋でもない事を思い出した。チェックアウトまでどのくらいだろう、などと間抜けた考えが浮かぶ。
 カーテンに閉ざされ外の気配は伺い知れないが、恐らくまだ夜中だ。
 寝直そう、と落ち着く体勢を取ろうとした瞬間、イルカは目の前の皓い皮膚に赤紫の鬱血を見つけた。
 たちまち数時間前の記憶が蘇り、イルカは一人真っ赤になった。
 男二人が同衾するには狭いツインベッドの中、自分を抱いて眠る肌に痕を残した、その所作まで思い出してしまう。
 すっかり目が冴えてしまった。
(…風呂でも浴びよう)
 イルカは男を起こさないように、そっと躯を起こした。回された腕を外しても目覚める気配のないカカシに、胸をなで下ろしつつベッドを抜け出す。何となく、今の顔を彼に見られたくなかった。
 バスルームへ行きかけて、サイドテーブルに散らばるものに気付いた。小山を作っているそれは、バレンタインデーだった昨日、互いに貰ってきたチョコレートだった。
 そのほとんどはカカシのもので、けれどイルカが部内の女の子や取引先から貰ったものも混じっている。夕べはそれを肴に一杯やったのだった。
 寝起きの喉を潤そうと、グラスに残っていたワインを軽くあおる。温い渋みが広がって起き抜けの頭を刺激し、イルカは昨夜の事をあれこれ思い出した。
 カカシは自分が貰ったチョコについて、イルカが何も言わないのを不満に思ったらしかった。態度に出しはしなかったけれど言葉の端々にそれが滲んでいた。
(妬いて欲しかったのか、やっぱり)
 そりゃあ嬉かないよ、とイルカはひとりごちる。だが、自分が嫉妬できる筋合いの事でもないとも思う。
 いつかカカシが彼女たちの誰かを選んだとしても、イルカは恐らく何も出来ない。「女」である彼女たちと違い、自分はどうしたって「男」で、そのことがイルカにとって引け目である事実は、多分この先も変わらない。
 そういう事もきっとカカシには知れているから、余計に面白くないのだろう。
「それでもね、今がこうして幸せならいいんですよ、俺は」
 揺れるグラスの水面に呟いて、イルカは微笑した。
 同性であるカカシと愛情を交わすことも、身体を重ねることも。行き着く先が幸福とは限らないと知ってすべてを決めたのは自分だ。
 だから後悔はしない。未来は考えない。そう心密かに決めたのは大分前の話だった。
 いずれ終わるときが来るのだとして、それまではせめて幸せでいたいのだと、イルカは何にともなく願う。
「よし、風呂だ風呂」
 気を取り直した途端、隣のベッドの有様が目に飛び込んできた。二目と見られぬ乱れ様に、イルカは顔から火を噴く思いでそこから逃げた。


 がしがしと頭を拭きながらベッドサイドへ戻ったイルカは、濡れた髪の間から見えたものに吹き出しかけた。
 先刻確かに銀髪が乗っていたはずの枕が、今は足を乗っけている。
 カカシは何故だか180度回転した姿勢で眠っていた。頭から毛布を被っているのでまるで蓑虫である。踝(くるぶし)から先だけが枕の上ににゅうと出ている。
「どんな寝相だよ…」
 おかしがるイルカの目にその皓い足が留まった。しばらくそれを凝視して、ふと床に視線を走らせる。その先に散乱した二組のダークスーツを見つけると、イルカは自分のスラックスを拾い上げ、ポケットを探った。


*****

 足に、というか足の先に違和感がある。
 カカシはうう、と一つ唸り、瞼を押し上げた。毛布からちょっと頭を出して見れば、イルカが何やら気難しい顔でカカシの足を見ている。
「…何やってんですか?」
 我ながら寝ぼけた声を出す。するとイルカは奇妙な姿勢で、こちらが何事かと思うほどぎょっとして振り向いた。
「あの?」
 目があった途端、イルカはみるみる顔に朱を上らせた。バスローブから覗く胸元まで真っ赤になっている。
「あー、もしもし?」
 そうしてようやくカカシは足先の違和感を思い出した。それを察したのか、イルカがカカシの足に手を伸ばしかけ、カカシはとっさに足を引っ込めた。
「…あ」
 自分の足の指を見てカカシが固まった。イルカが失敗でもしでかしたように片手で顔を覆う。
 カカシの、少し長めの足指にあったものは、およそそこに似つかわしくないものだった。
 右足の薬指に細い銀の指輪が引っかかっている。まさに「引っかかっている」状態で、ぶかぶかだが。
「足の指用…じゃあありませんよねぇ…?」
 イルカがその場に座り込んだ。ぎしっとベッドが軋む。脱力しきった様子の彼は心持ち背中を丸めて、何だか項垂れているようにも見えた。
 カカシは胡座の姿勢で右足を抱えると、改めてそれをまじまじと見つめた。紛う方なき指輪だった。
「俺に、くれるんですか?」
 顔を覆ったイルカが微かに肯く。
「くれるの?俺に?」
 イルカの首が再び揺れた。
「…ほんとに?」
 カカシはとにかく呆気に取られて、阿呆のように繰り返した。すると、チョコの代わりだとか、いらないならどっかやってくれてもだとか、くぐもった応え(いらえ)がある。
 彼の横顔を隠す濡れた黒髪が、仄かな明かりの下で艶を湛えていた。狭間から覗く色づいた項に愛しさと劣情を掻き立てられる。一も二もなく抱き締めると、うわ、と間の抜けた声がした。
「いらないわけないでしょうが!」
 もう、と腕を強くする。照れくさいのかイルカが藻掻いた。カカシは笑って腕の中の身体をなだめるように揺すった。やがて大人しくなったイルカの、妙に深い溜め息が胸元にかかった。
 カカシは、わかってるのかなあとイルカを抱き直して言った。足の指から指輪を抜いて目の高さに掲げる。細い銀の輪が繊細に光を弾いた。
「貴方がどういう気だろうが、俺はひじょーうに重い意味で受け取りますよ。いいですよね?」
 抱いた身体はうんともすんとも言わない。
「まさか先を越されるとは思わなかったけど」
 嬉しいです、と火照る耳朶に軽く歯を当てて囁く。イルカが身動ぎながらこくりと頷いた。
「…でも」
「へ?」
「どうせなら左足に填めてくれた方が良かったなあ」
 口付ける距離まで引き寄せたイルカの顔が複雑そうな表情に変わるのを、カカシはとても満たされた心持ちで見ていた。


 抱き伏せた躯の熱に溺れながら、カカシはもう彼を手放してやれそうにないと思い知った。例えそれが彼の幸せだとか、平穏な人生だとかを奪うことになろうと、胸の内の想いを捨てる気は毛頭ない。身勝手は承知の上だ。
 つい五分前のやりとりを苦く反芻する。どんなにねだってもイルカは指輪を右手に填め直してくれず、カカシはそれなら遠慮なくと自ら薬指に通したのだった。苦笑で紛らしたその数分間に、今の二人を隔てているものがあった。
(知ったことか)
 感情任せに愛撫の手が強まる。く、と鳴ってのけ反るイルカの喉元に吸いついた。
 カカシにとっての真実は、離れられないというそれ一つだけだ。彼の倖いを願いこそすれ、そこに自分が居ないのならば、それすら奪ってやりたいのが本音だった。
「たちの悪い男ですよ、俺は」
「…今さら、でしょうが、っ」
 独り言に応える声があった。荒い息の下でイルカが笑っている。何故か泣き出しそうにも見える、その口を深く貪った。
 右手に冷たい金属の感触を伝えていた指輪が、彼の躯を辿って徐々に熱をもつ。
 それはまるでイルカの体温を吸い込んでいくようで、カカシはますます胸を熱くした。



end.
2004.02.12




UZO-MUZO』のつじさまより素敵小説の続きを頂きました!
「まだ少し先の話」がどこかに落ちていないか探しまくった甲斐がありました!
(いや、あなた別にこれといった努力は何もしてませんから……)
アダルティなリーマンのバレンタインですよ。
指輪が!と叫んでしまいます。しゃー、んなろー!
つじさん、バレンタインに最高のギフトをありがとうございました。
冬之介 2005.02.14

壁紙提供→『Studio Blue Moon』さま


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