「カカシ先生ー」
 人がいない時を見計らって名前を呼んでみるけれど、探している家出猫はぜんぜん影も形も見当たらない。行きそうなところは全部廻ってみたのに。
 思わず溜息が漏れる。
 やっぱり怒っているんだろう。
 本当は家にまで仕事を持ち帰るなんて、よくないことなのはわかっていた。でもそうしなければ期日には間に合いそうにないから焦っていたのだ。自分のことで手一杯だったから、人のことを思いやる余裕がなくて傷つけてしまった。怒るのも無理はない。
 今なら優しくできると思う。望むことなら何でもしてあげたい。でもそんなのは今さらだ。遅すぎる。
 あのとき名前ぐらい呼んであげればよかった。
「カカシ……」
 ぽつりと呟いた瞬間。
「はぁい」
 明るい声と共に、後ろから抱きしめられた。
「え、え、カカシ先生?」
「カカシ先生じゃなくて、カ・カ・シ。あなたのカカシですよぉ。にゃあん」
 抱きしめられた上に頬ずりつきだ。
 今までの心配がまるで無駄だと言わんばかりのその明るさに、眩暈がしそうだった。
「今までどこに行ってたんですか!」
 安心すると同時に怒りが込み上げてきた。さっきまで優しくすると考えていたのが吹っ飛んでしまっていた。
「イルカ先生の側にいましたよ?」
 ずっと跡をつけていたのか。さすが上忍、通りで見つからなかったはずだ。
「それじゃあ、どうして今出てくる気になったんですか?」
「要求が通ったからですよ〜」
 要求ってなんだ?
「呼び捨てにしてって言ってたでしょ?」
 あれか!
 というか、呼び捨てにすればそれで済む話だったのか? 恋人の前で仕事に没頭して蔑ろにしてごめんなさい、と謝る場面じゃなかったのか?
 俺の心配は一体どうしてくれるんだ。なんだか理不尽だ。納得いかない。
「やだな。俺だって仕事だってわかってますよ。邪魔しないようにと思ってました。だけど、ちょこっとだけ名前を呼んで欲しいと思ったらそう言っちゃってて、引っ込みつかなくなって、しまいには意地もあってこんな長い間顔も見られないことになっちゃってましたけどね」
 もう、寂しかったんですよぉと言いながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめられた。
 寂しかったのなら、家出なんてやめて早く帰ってこればよかったのに。少し不満に思う。そう思うのは自分も寂しかったからだろうか。
「だって、やっぱりお迎えがきて帰りたいじゃないですか」
 そうかもしれない。家出なんてしたことはないけれど、実際してみたらそう思うのかも。
「でもね、いいこともありましたよ。名前を呼んでもらえるのがすごく嬉しいことだって再認識できたし」
 それはそれは嬉しそうに笑われて、なんだか泣き出したい気分になった。巧く言葉には表せないけれど、きっとこれが幸せってものなのだろう。
 家出した猫は無事帰ってきたし、すべてこの世は事もなし。
「では、我が家に帰りましょうか」
「はぁい」
 空はきれいな夕焼けで、二つの影が長く長く伸びて見えるのだった。


END
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2006.06.26初出
2009.10.03再録


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