【ひとめ会ったその日から1】


ひとめ会ったその日から恋の花咲くこともある。
なんて、そんな昔の使い古した言い回しなど信じてなかった。
ひとめ惚れなんて胡散臭いだろ。
だって顔見ただけで恋に落ちるなんてありえるか? ありえない。
性格や仕草やその人の内面、そういったものが好きになる条件じゃないのか。顔だけ好みって軽すぎる。
俺は絶対そんなことはしない。
決して顔を見ただけで好きになったりなんてしない。
そう思っていた、その日までは。


「なに、この行列は」
健康診断を受けるため総合病院へ来たのだが、この人混みには辟易だ。
診察を受ける前にどうしてこんなに並ばなきゃいけないんだろ。
朝早く出かけて昼近くまでかかることもあるらしい。うへぇ、俺だったら絶対並ばない。それくらいなら家で寝込んでた方がマシだ。
長い列を眺めていると溜息が漏れる。だから来たくなかったんだ。
健康診断はまた別受付らしいのが救いだ。
今まで会社に勤めてからこの方、仕事が忙しいだの何だのと誤魔化して健康診断なんか受けてこなかった。
あんなもの面倒くさい。受けたい者だけ受ければいいじゃないか。
しかし会社には会社の都合というものがあるらしい。
福利厚生がどうとか同期のガイが熱く語っていたが、あまり内容は覚えていない。とにかく静寂を手に入れるためには健診を受けると頷くしかなかったのだ。
公休になるというのに少し心惹かれ、しかたなく今日はやってきたがすでにうんざりしていた。
受付に行くとそこもまた列がついている。
さっきの外来よりはマシだが、まだまだ順番は回ってきそうにない。どうせならトイレにでも行っておくか。
戻ってきた時には列も少し減っていて、割と早く順番が回ってきた。
「問診票と検便を提出してください」
あらかじめ郵送され用意して来た問診票と検便を看護師に手渡すと、確認される。
「はい、はたけカカシさんですね」
手渡されたのは紙コップ。
なんだこれ。
「お手洗いはあちらになります」
看護師のにこやかな笑顔で指し示された先には、さっき出てきたトイレがあった。
あ。
あああ、検尿か!
ヤバイ、さっき行ってきたばっかりなのに。
いくら初めての健康診断とはいえ、検便があるなら検尿だってあるというのは容易に想像着くはずなのに。何やってるんだ、俺!
営業なら慣れた作業でお手のものだが、こういうのは勝手が違って困る。
幸先悪い……と肩を落としながら、トイレへと向かう。
が、出るわけがない。
ヤバイよなぁ。昨日の夜から飲まず食わずだから1回出したらもう出るもの残ってるわけないって。
便器の前で紙コップを恨みがましく眺め、溜息を吐く。
「大丈夫ですか?」
「へ?」
背後から突然と声をかけられ間抜けな声が出た。
振り返ると男が一人立っていて。
「気分が悪いんですか?」
心配そうに寄せられた眉。
瞬く黒い瞳。
そっと肩に添えられた温かい手。
見た瞬間に身体が硬直した。
「えと、検尿なのに、で、出なくって……」
しどろもどろで答える。
「ああ。検尿はほんの少しだけでも検査してもらえるから大丈夫ですよ。頑張って」
にこっと優しく笑いかけられた。
その笑顔に衝撃を受け、思わず手に力が入り、持っていた紙コップがくしゃりと歪んだ。
中身が入ってなくて幸いだった。
ぼんやりとそう思いながら、目の前の人を見つめ続けた。
「代わりの紙コップ、貰ってきましょうか」
「え」
「それ、もう使えそうにないから」
「あ」
「ちょっと待っててくださいね」
そう言って目の前から消えてしまった。
俺はまるで初めて日本語の授業を受ける外国人のように、あいうえおしか言えないアホだった。
いなくなってから、ようやく止まっていた心臓と呼吸が動き始める。
顔の造作とかじゃなくて、ただそこに居る雰囲気に心奪われた。
いや、もちろん顔も可愛かったけど。
性格とか中身なんて目に見えないものだと思っていたが、それは間違いだった。それは外に滲み出てくるのだと知った。見ただけで好きになれるかどうかわかるものだと知った。
会った瞬間にビビビときました、とか言う女を鼻で笑ってきたのに。
ひとめ惚れなんて信じてなかったのに。
まさにひとめ会ったその日から恋の花が咲いたのだった。


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2007.01.13


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