普通であれば翌朝の暁七ツには客は帰らなければならない。辺りがまだ暗い中、別れて見送るものなのだが、その日は昨夜に続いて雨が降っていた。
イルカが寝ているカカシを起こそうと揺するが、唸るばかりで起きあがる気配もない。
「雨に濡れて帰るのは嫌だから、今日は帰らなくてもいい?」
終いにはそんなことまで言い出す始末だ。寝起きが悪いのはいつものこと、と諦めているのかイルカはあっさりと頷いた。
「ありがと。嬉しいな」
カカシは目を細めて笑い、安心したようにまた眠りについた。
長い間会えなくて寂しかったのはイルカも同じだった。待ち人が目の前で寝ている嬉しさで思わず笑みが漏れ、髪を撫でた。
カカシのこの様子では、当分入り浸るつもりだろう。
雨を理由に居座り続ける。本来ならそんな客は下下の下と言われるほど迷惑がられるのだが、この場合は少々事情が違った。
しばらく滞在するのはカカシの場合よくある話だった。カカシは気前の良い金持ちで、お付きの新造や禿はもちろんのこと、台所の下女に至るまで小判をばら撒いてくれるので、妓楼全体に歓迎されていた。
そこまでして太夫と一緒にいたいだなんて、その熱愛ぶりが羨ましいと評判の的でもあった。
カカシが入り浸るのはよくあることだったのだが、まさかそれを放って出かけるわけにもいかず、イルカは頭を抱えた。嬉しい反面、しばらく昼間ナルトへ会いに行けなくなるのはどうしたらいいのかと悩む。しかたなく朝のお膳を運んでもらうときに、こっそりと女将にナルトへの伝言を頼むことにした。
「用事があって行けなくなったから、と伝えてください。謝っていたと。神社で待っているはずなのでお願いします」
「ああ、任せておおき」
女将の綱手は、豊かな胸をぽんと叩いて快く請け負った。
「すみません。女将にこんなことを頼んだりして……」
「イルカが謝ることじゃないよ。心おきなくお客様の相手をしておくれ」
「はい」
申し訳なさそうに謝るイルカを、綱手は気にするなと言い置いて後にした。
下女に傘を持ってこさせる間、雨の止まない外を眺めてやれやれと溜息をつく。
だいたいの事情を知る女将は、どうせまたあの馬鹿旦那が焼き餅やいて駄々捏ねたんだろうよと予想する。今までの執着ぶりからしてそれは間違いなかった。
元々、イルカが初めて郭に上がったときの旦那がカカシだった。普通ならばもっと経験豊かな馴染みの客が旦那となるはずが、父親に連れてこられた少年が、あの子がいい、あの子じゃなけりゃなりませんとごり押しをしたのだ。三日連続で通ってきて、三日目の朝に「指切りの代わり」と言ってイルカの顔の真ん中に大きな傷をつけたときには、さすがの綱手も怒ったものだが。イルカ自身も承知の上だと言われては不承不承許すしかなかった。
小指を切ったり相手の名前を刺青で彫ったりするのは遊女の誠意の証。かりそめの夫婦の契りと言っても良い。イルカ本人も望んでということであれば仕方がない。
しかし、そうは言っても顔のど真ん中に大きな目立つ傷。そんなものが残っていては他の客はつくまいと思われた。その予測は良い意味で裏切られ、傷があるとさらに愛嬌が増してよいだの、あの笑顔の前では傷なんぞ霞むなどと評判を呼び、イルカは太夫にまで上り詰めたのだった。
「はぁ。厄介なのに惚れられたもんだよ、うちの太夫も」
綱手は軽く頭を振ると、手渡された傘を勢いよく開いて雨の中へと出ていった。
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2005.12.03 |