【伝えたいことがあるんだ・前編】


 どんな些細な任務も報告はある。そのための報告書であり、受付所だ。
 俺は今まで暗部だったため、報告は直接火影さまへ口頭か簡単な資料を添えた証拠提出にすぎなかった。だから受付にどんな人間が座っているかもまったく知らなかったと言っていい。
 そんな俺だが、今は任務が終わればちゃんと列に並んで報告書を受け付けてもらえるのを待っている。
「お疲れさまでした」
 穏やかな労いの声が聞こえてくる。
 そう。俺はその声の主目当てにこうやって大人しく列に並んでいるのだ。
 その声が自分にかけられるのは、胸が高鳴るくらい楽しみでもあり、胸が押しつぶされそうなくらい緊張の一瞬でもある。
「カカシ先生。報告書、お預かりしますね」
 いつもここで『はい』とか『お願いします』とか言いたい気持ちは山々なのに、どうしても声は出てこない。意気地なしの俺。
「今日の七班は田植えの手伝いですか。大変でしたね。子供たちはちゃんと仕事をこなせましたか?」
 書類を確認しながら話しかけられるが、どう答えていいものかわからない。緊張度はマックスだ。
 どうやって息をするんだったっけか。
 どうやって心臓を動かすんだったっけか。
 よくわからない。わからないよ。
 返事がないことを不審に思ったのか、書類確認が終わったせいか、いつの間にか黒い瞳はじっとこっちを見つめていた。
 意識が遠のきそうになったが、なんとか踏みとどまった。
「なんとか……」
 なんとかやってていっぱいいっぱいなのは、たぶん俺だろう。それぐらいは自分でもわかっている。
 でも自分だけの力ではどうにもできない。せっかく話しかけられた会話の糸口を握りしめたい気持ちは、それこそ火影岩より高いのに。
「……そうですか。お疲れさまでした」
 一瞬沈黙が流れたが、俺の無愛想な返事にイルカ先生はちゃんと最後まで応対してくれた。なんだか困ったなぁという笑顔つきで。
 もう駄目だと思った。イルカ先生にとって俺は困った存在なのだという事実に打ちのめされた。
 しかし、これ以上ここに突っ立っていては邪魔なことに気づいて、力を振り絞りよろよろしながら受付を後にする。せめて邪魔だとは思われたくない。
 部屋から出て左に曲がった瞬間、我慢できずに廊下にしゃがみこんだ。心臓がうるさくてこれ以上は歩けない。
 長時間座り込んでいるため、周囲の視線は無遠慮に突き刺さってきたが、俺自身はそれどころではなかった。
 どうして俺って奴は! あれだけ言うのがやっとなんて。
 いや、しかし初対面の時はもう少しおしゃべりできていたと思う。
 あの時はわけもわからないまま突き進んだから可能だったおしゃべりも、今はそんな勇気など欠片もない。
 いったい全体どうやって声を発していたのかすらわからなかった。せめて何かのヒントがないだろうかと、その時のことを思い出そうと必死に頭を巡らせた。



***



 七班全員を下忍として合格にした日。皆で里へと戻る途中、ナルトが突然嬉しそうに叫んだ。
「イルカ先生ー!」
 呼び止められた人物は立ち止まり、誰が自分の名前を呼んだのかと辺りを見回す。そしてナルトに気づくと、その顔に笑みが広がった。
 その瞬間、俺は超ド級の雷に打たれた。
 身体が痺れて動かないのはもちろんのこと。心臓はこれでもかというくらい激しく動き、沸騰した血液が全身を駆けめぐっている。周りはチカチカしてまともに見えないのに、なぜかその人の姿だけはよく見えた。
 動悸、息切れ、眩暈が一気に襲ってきて、倒れなかったのが不思議なくらいだ。そこは一応元暗部としての鍛錬の賜物だと思う。
 しかしだからこそ、この突然の異変に驚きと戸惑いを隠せない。
 え、え、俺死ぬの? 死んじゃうの?
 今までこんなことは一度もなかったから、これはもうすぐ死ぬ前兆なのだと思った。
 そんな俺の動揺も知らず、他の連中は楽しそうだった。
「私たち、下忍選抜に受かったんですよ!」
「試験があるなんて聞いてなかった……」
「明日っから俺ってば大活躍するからさ!」
 今子供たちの報告を受けている人物が、昨日からうるさく聞かされている『イルカ先生』なのだろう。ラーメンを奢ってくれるというナルトの大好きな大好きな先生。
 ぼんやりと眺めていると、ナルトどころかサクラや無愛想なサスケまでが慕っているのは一目瞭然だ。
「イルカ先生! これがカカシ先生だってばよ」
「こら! これ、なんて言う奴があるか!」
 ナルトが叱られていた。
 いや、それよりもナルトが俺の名前を言ったせいで、こっちに注目が集まってしまった。
 治まっていた動悸がなぜか再発して、どうしようもなく困る。
「あの、すみません。ナルトが失礼なことを言って……」
「いえ、大丈夫で…す」
 本当はあまり大丈夫じゃない。
 でも目の前で何かしゃべってる。それを聞きとらなくては、と思った。耳を集中させる。
「わたしはアカデミーの教師をしているイルカと言います。この前まで子供たちの担任で」
「あ! おお、俺はカカシと言います!」
「はい。もちろん存じあげてます。お会いできて光栄です」
 にこっと笑いながら手を差し出された。
 え、何これ。
 どうしたらいいの。
 もしかして触ってもいいんだろうか、この手に。
 短く切られた爪がいかにも几帳面そうだけど、温かそうな手。触ってもいいなら触ってみたい。
 でも何で? どうして触ってもいいのか理由がわからなくて躊躇う。
 内心おろおろしていたら、
「やだぁ、カカシ先生。握手もしないなんてお高くとまってるわ」
 と、サクラが怒り出した。
 握手。握手って、もしかして手と手を握り合って挨拶するとかいうあれ?
 ビックリだった。そんなことを求められるなんて初めてのことだったから、まさか握手だとは思わなかった。
「すみません。上忍の方が軽々しく握手なんてするはずありませんよね。俺の方こそ失礼なことを……」
 イルカ先生はそう言って、せっかく出していた手を引っ込めてしまった。
「あ……」
 こんなことならさっさと手を握っておけばよかった!
 後悔先に立たず。
「子供たちのことをどうかよろしくお願いします」
 頭を深々と下げられて顔が見えなくなったのは残念だったけど、よろしく頼まれたのは嬉しかったので、
「は、はいっ」
 と返事をした。
 その後、イルカ先生はナルトを連れてラーメンを食べに行くと言って、去っていってしまった。
 その後ろ姿を見送ると、ようやく動悸も治まり身体の痺れも薄れてきて、ほっと安堵の溜息をついた。



***



 それが出会いだった。
 ああ、あの時の手を握っていれば!
 だってその時点では気づいてなかったんだ、あれが恋に落ちた瞬間だと。後になってようやく気づいたのだから仕方がない。
 狼狽えているうちにチャンスは去り、もう二度と戻ってこない。チャンスの神様の後ろはつるっぱげというのは本当らしい。
 なんてことだ! あのハゲめ!
 心の中で八つ当たりの罵倒はなかなか止まなかった。
 何か役立つことを思い出そうと昔を回想してみたが、結局悔しい思いが増しただけで有益なものは何一つない。ガッカリだ。
 廊下に正座したまま溜息をつく。
 そんなとき。
「あっれぇ? カカシ先生、こんなところで何してるんだ?」
 その声にハッと顔を上げた。
 無邪気な疑問は、さっき別れたばかりの教え子だった。
「ナルト。お前こそ」
「俺はイルカ先生とラーメン食べに行くんだってばよ」
 なんて羨ましい。
 俺が一言発するのさえ苦労しているのに、お前は一緒にラーメンを食べるというのか!
 このお子様は、いつもなんの苦労もなくイルカ先生に飛び付き、なんの躊躇いもなく食事に誘い、頭を撫でられるのだ。
 あ、なんか想像するだけでも腹が立ってきた。くそっ。
 この恨みをどうやって晴らしてやろうか、と危険なことを考えていたら妙案が浮かんだ。
「ナルト。今日は俺がラーメン奢ってやろうか」
「ええーっ?」
「最近頑張ってるからご褒美だーよ」
「やったぁ!」
 ナルトは単純に信じて喜んでいる。良心が咎めないわけではないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
「でもさ、今日はイルカ先生と約束してるんだってばよ……」
 ナルトは言い出しにくそうだったが、俺の目的はそっちだから問題はない。
「別にイルカ先生が一緒だっていいだろう。その分もちゃんと奢るさ」
「ホントにぃ?」
「ホントホント。何杯食べてもいいんだぞ」
 とたんにナルトの顔が輝いた。
「マジでマジで?」
「もちろん」
 頷いてやると、満面の笑みを浮かべた。
「わかった! 今すぐイルカ先生を呼んでくるから待っててくれってばよー」
 最後の方はもうすでに走り出していて、声だけが遠くに聞こえていた。俺の気が変わらないうちに、と慌てていたのかもしれない。
 しかし、これは我ながらいい考えだ。
 ナルトがいればあまりしゃべる必要もなく、間近でイルカ先生をそっと盗み見ることができる。一石二鳥だ。
 二人のラーメン好きは有名で、なんでも週一は必ず一緒に食べに行くと聞いたことがある。週一だって!? なんてことだ、ナルト!……いや、そうじゃなくて。こうして少しずつ慣れていけば、いつかイルカ先生とおしゃべりするのだって夢じゃないはず。
 頑張ろう。
 決意も新たに拳を握っていると、
「すみません。お待たせしてしまって……」
 恐縮する先生がナルトに手を引かれてやってきた。
「い、いえ」
 決意をしても、なかなか人は思うようにいかない。
「早く行こうってばよ!」
 ナルトの催促に助けられ、しゃべらないまま一楽へと向かった。


●next●
2005.09.18初出
2012.06.09再掲


●Menu●