「うわ。ひ、人殺し!」
逃げようとしたが、痛みのためにろくに動けずにその毒のような液体を塗られてしまった。
きっと塗られた瞬間に激痛が走るだろうと思っていた予想は裏切られ、ひんやりとしたそれは痛みを和らげてくれた。
「あ…あれ?」
もしかして地元に伝わる民間療法の薬だったのか。
ということに思い至り、人殺しと言ってしまった罪悪感に胸が痛んだ。
「ありがとう」
礼を言い、改めてその人物を観察する。
南国特有の薄いチョコレート色に焼けた肌、黒い髪、黒い瞳。
なによりも真っ先に目に付いたのは、真一文字に鼻筋を横断する傷跡。
その傷は醜くはなく、むしろ愛嬌を強調しているかのようだった。
「名前は?」
そう聞けば、小首を傾げてじっと見つめてくる。
傾げた拍子に、後ろで高々と括ってある髪が揺れた。
ああ。言葉が通じないのか。
英語なら不自由はしないが、ここの現地の言葉はわからない。
村長などの多少裕福な家の人間なら英語が通じるのだが、きっとそんな教育を受けていない島育ちの人間なのだろう。
「俺の名前はカカシ。カ・カ・シ」
自分の胸を指さして名前を繰り返せば、なんとか通じないだろうかと試してみる。
「…カ・カシ?」
「そう!」
発音はとても望んでいたようなものではなかったが、それでも伝わったことに強烈な喜びを感じた。
「カ・カシ」
嬉しそうな笑顔に何故か衝撃を受けた。
なんて顔で笑うんだろう。
ただの名前だ。
そんな幸せそうに笑う必要なんてない。
それでも、呼ばれた名前は不思議に俺の中のなにかを満たしていくような気がした。
相手の名前が知りたくて指さしてみる。
「名前は?」
「イルカ」
意図したことが通じたことが嬉しかったのか、名前がわかったことが嬉しかったのか、自分でもよくわからないまま。
「イルカ」
教えられた名前をオウム返しに口にすれば、はにかんだ笑みが漏れた。
その姿が愛らしいなんて、男相手に思ってしまった。
この太陽の下、笑っているのがよく似合う。
そう思った。
感謝の気持ちを伝えたかったが、言葉が通じなくてはどうしてよいかわからない。
戸惑っていると。
「イルカー!」
イルカが、はっと声がする方に振り向いた。
誰かが呼んでいた。
申し訳なさそうにココナッツの器を俺に手渡し、呼ばれた方角へ急いで駆けて行ってしまった。
何度も振り返りながら。
ああ、行ってしまった。
何故か心に穴が空いてしまったかのように、呆然とその方角を見つめる。
こんなにも寂しい気持ちになるのは、きっとこの夕焼けのせいだ。
あんまり美しすぎるから。
きっとそうだ。
そんなことを考えながら、紅く滲む夕陽が水平線に沈んでいくのを眺めていたのだった。
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2002.07.20 |