イルカが筆を買いに行こうと裏の垣根をくぐったとき、何やら囃し立てる声が聞こえてきた。
最初は近所に住む子供たちが遊んでいるのかと思った。この辺りは、表通りに回ると高級見世が建ち並ぶ郭の一等地になる。そのため働く者の数は膨大で、下働きの子供や禿も多い。きっと何人かが集まっているのだろうとイルカは考えた。
がしかし。近づくにつれ乱暴な罵り声も聞こえてきて、慌てて四つ辻の角を曲がった。
「何をしてるんだい?」
声をかけると、子供たちはわーっと蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
後に残されたのは、座り込んだままの一人の子供。
目にも眩しい金髪で、なるほどそのせいで苛められていたのは一目瞭然だった。
髪の色が違ったからといって苛めて良い理由にはならないだろうに、子供は時として残酷だ。イルカはそっと溜息をつく。
「大丈夫かい?」
立ち上がらせ着物の裾についた泥などを叩いてやっても、下唇をぐっと噛みしめて黙っている。泣くのを堪えているのだ。
「偉いなぁ、小さいのに」
「小さくなんかないってばよ!」
思わず感心して誉めると、途端に反論された。標準よりも少し背が低いことを気に病んでいるのかもしれない。
「ああ、ごめんごめん。小さくなんてないよな」
イルカが慌てて謝ると、子供は怪訝な顔をした。
「どうした?」
「……大人が謝ってくれるとは思ってなかったから」
子供どころか大人までも異国の血を引くこの子供には冷たいのだろう。イルカの態度が珍しく、ちらちらと様子を窺っている。
ただ髪や瞳の色が違うだけで、なんら普通の子供と変わりないというのに。どうして周りは酷いことをするのだろう。イルカは悲しく思った。せめて自分は普通に接したいと望む。
「俺はイルカって言うんだよ」
名乗ると、ぱぁっと子供の顔が輝いた。名乗るということはつまり、自分の名前を相手が知りたがっていることだと気づいたからだ。
「俺はさ、ナルト!」
「へぇ、良い名前だな。似合ってるよ」
イルカが誉めると、へへへと嬉しそうにナルトは笑った。
「どうして苛められてたんだい?」
「苛められてなんかないってばよ!……ただ俺が字が書けないのを笑うから、一人を捕まえてちょっと殴ったら大勢連れてきやがってさぁ」
なるほど。字を習ったことがないのか、とイルカは思った。
でも一対一なら絶対負けないんだってばよ、と強がる子供は見ていて痛々しかった。
おそらく周りの誰も教えてやろうとはしないのだろう。髪の色に加えて学がないということで苛められる。悪循環だ。
「読み書きくらいなら俺でも教えてあげられるけど」
イルカがそう提案すると、ナルトは目を見開いて驚いた。
「それ、本当!?」
「昼見世が始まるまでなら少し時間が空いてるから、それでよかったら」
やったぁと喜ぶ姿に、イルカも嬉しくなって笑みが漏れた。
その後、二人は筆を買った後に近くの神社へと向かった。
歩く道すがら、イルカとナルトはいろいろな話をする。
「ナルトは一人で暮らしてるのか?」
「うん。じっちゃんが亡くなってからは一人なんだ」
赤ん坊の頃から面倒を見てくれていたお祖父さんが亡くなり、まだ小さいのに一人で生計を立てているのだという。荷物持ちをしたり手紙を届けたり頼まれたものを買いに行ったりと、些細なことながら塵も積もれば山となるで、この遊里を走り回っているらしい。
「えーっと、俺は……」
「あそこの妓楼の太夫だろ」
「え。どうして知って?」
「鼻に大きな傷があるって有名だってばよ」
「そうか」
そんな話をしながら歩くとあっという間に神社に辿り着き、境内の片隅に座り込んだ。イルカは懐から筆と畳紙を取り出して、まずは書いてみせる。
「な・る・と。これが平仮名」
「俺の名前?」
「そうだよ」
「じゃあさじゃあさ。イルカ先生はどう書くんだってばよ」
「先生?」
「寺子屋で読み書きを教えてくれる人のことをそう呼ぶんだろ。俺だってそれくらい知ってるんだってばよ」
得意げに鼻をこするナルトに、イルカは駄目だと言い出せないまま黙認するしかなかった。
「次はこれが俺の名前だよ。い・る・か」
「あ、真ん中のが一緒の形だ!」
嬉しそうに覗き込むナルトに、
「本当だ、『る』が一緒だな」
とイルカは頭を撫でた。
ナルトはなかなか筋が良さそうで、これなら平仮名くらいすぐに覚えるのではないかと思われた。
こうして朝日が昇って皆が起き出してきてから正午になるまでのわずかな時間に、二人は毎日のように待ち合わせて読み書きを練習するのだった。
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2005.11.11 |