ある日の夜五ツ頃、イルカが用事があって張見世に顔を出すと、
「イルカ先生！」
と呼ぶ声があった。
はっとその方向を見れば、夜の暗闇にも鮮やかな金髪が揺らめいていた。
「ナルト」
イルカは慌てて格子に近づく。
「どうした？」
周りに聞こえないようひそひそと囁くと、
「今お使い中なんだ」
と明るく返事が返ってくる。たしかにその手の中には文があった。
こんな夜遅く子供を使いに出すなんて非常識だ、とイルカは内心の憤りを隠せなかった。しかしナルトは気にした風もなく笑っている。
「もしかしてイルカ先生居るかなぁと思ってちょっと寄っただけなんだ」
「そ、そうか」
普段であれば太夫が見世に出ることはなく、きっと会えずにがっかりしたことだろう。ちょうど降りてきてよかったとイルカは思った。
「すっげぇ綺麗だってばよ」
ナルトは瞳をキラキラさせてイルカの姿を眺めている。
昼間教えている時とは違って、襦袢の上に三枚を重ね着、さらに煌びやかな打掛に豪華な前帯の姿は、ナルトにとっては目を瞠るものだろう。
素直な賞賛は逆に居心地が悪く、イルカは恥ずかしげに目を伏せる。
そこへ低い声が響いた。
「金もない餓鬼がこんな所に来るもんじゃねェ」
ここ妓楼の用心棒がのっそりとやってくる。
たしかに商売の邪魔であった。通りを行く者たちもこんな年端もいかない子供が、と物珍しげに眺めていく。
そんな子供を格子からどけようと、用心棒が普段は重い腰を上げたのだった。しつこい客や金のない客などは、その強面を見ただけで震え上がって逃げていく。ここの鬼人の噂は有名で、遊女につれなくされて逆上したとしても抜刀した武士ですら勝てたという話は聞かなかった。
イルカは慌てて用心棒を止めようと声をかける。
「再不斬さん！違うんです、この子は冷やかしとかじゃなくて……！」
太夫の言葉に再不斬が足を止めた。懇願するように視線を送ると、自分の仕事じゃないのならかまわない、というように肩を竦め、あっさりと戻っていった。
イルカがその後ろ姿に感謝し安堵していると、番頭のエビスが出てきて邪魔なナルトを追い払おうとする。どうしても見世の前に買う気のない人間が居ることは許されないのだ。
そろばんは得意な番頭が息せき切って追いかけるのに対して、ナルトは疾走して離れたところで立ち止まり、振り返ってからかう余裕さえあった。
「へへ〜ん、俺が捕まるわけないってばよ。じゃあ、イルカ先生またな」
そう言い残して自慢の俊足で駆けていった。
「可愛いお客さんだこと。太夫は人気者でありんすねぇ」
同じ遊女仲間はしきりに可愛らしいと誉め、鈴のように軽やかに笑い合った。

翌日、また神社で文字を書く練習をしようとしているとき。
「この財布がいっぱいになったら、夜もイルカ先生と一緒にいられるかなぁ」
突然とナルトがそんなことを言い出した。
蛙の形をしたガマ口財布を大事そうに抱えている。その財布が苦労して働いて貯めたお金だというのはイルカはよく知っていた。
しかし。太夫ともなれば揚代が高いのはもちろんのこと、下の者への心付けなどを考えれば値段はあってなきが如し。その上馴染みの客になるには最低三回は通わなくてはならない。とてもその財布だけでは賄えないのはわかっていた。
「……うん、そうだな」
「俺さ俺さ、頑張っちゃうもんね」
張り切るナルトに、
「会うなら昼間だってできるだろう？　お米を買った方がいいんじゃないかな」
と窘めてみるが、なぜか頑張るの一点張りで耳を貸そうとしなかった。必ずお金を貯めて行くから、と言い張るのだ。
「約束！」
ナルトがあまりにも無邪気に言うので断り切れない。いろいろな事情も承知の上で、イルカはどうしても駄目だと言うことが出来なかった。
女将さんにもしもナルトが尋ねてきたら、言い値で通してもらえるよう頼んでおかなくては、とイルカは思った。