【恋はあせらず6】


次の日。いつもどおり通勤ラッシュに揉まれながらもなんとか会社に辿り着くと、まっすぐに社長室へと向かった。
扉の前に置いてある秘書用の机では、イルカさんが始業前の準備に余念がない。
「おはようございます、イルカさん」
挨拶するとようやく俺の存在に気づき、笑顔を振りまく。
「カカシさん。おはようございます。ネクタイですか?」
カカシさん。
いい響きだ。
ささやかな幸せを噛みしめつつ、ネクタイを結ぼうと立ち上がったイルカさんを制止した。
「あ、今日はちょっとその前に……社長いますか」
「社長に御用ですか?」
「ええ。昨日の報告も兼ねて」
「わかりました。今お時間あるかどうか聞いてみますね」
イルカさんは社長室の扉をノックして『失礼します』と声をかけると、見ていて惚れ惚れするような背筋のピンと伸びたお辞儀をして入室していく。内容は聞こえないけれど話し声は漏れてきて、しばらくしてイルカさんが戻ってきた。
「お会いになられるそうです。どうぞ」
イルカさんはまだ準備があるのか気を遣ったのか、また机に向かって作業を再開する。残念な気もするけれどその方が都合が良い。
「ありがとうございます」
礼を言って一人で入室した。


「……というわけです」
昨日の接待の報告というよりは、ほとんどセクハラへの抗議しかなかったが、相手にはそれで充分だった。
「まさかそんなことをするとは……! けしからん。どういうつもりだ、あの青二才めが!」
じいさんは拳を震わせ、顔から湯気が出んばかりに怒りで真っ赤になっていた。じいさんにしてみればあのおっさんも青二才になるらしい。
社長にとっても昨日のことは不測の事態だったということは認めよう。
そしてこれだけ怒っているなら話が早い。
「で。俺としてはあの専務を許せないわけでして」
「もちろんわしもそう思う。じゃが、この契約が駄目になるのは会社にとって痛いの……」
じいさんは苦虫を噛み潰したような顔をした。
が、俺は契約を反古にする気はなかった。そんなことをしたってこちらが損をするだけ。どうして被害にあった方がさらに被害を被らないといけない?
「最終的には契約が成立すればいいわけでしょ? 調べてみたら、社長の従弟が常務をやってるそうじゃないですか。派閥争いもあるとか?」
「常務か……たしかに評判の良い人物だな。そっちの方と契約することはできるかの」
「俺に任せてください」
「……よかろう、お主に任せよう。アスマと協力してやってくれ」
「はい」
従順な部下のような態度で頷いて社長室を後にした。
あのハゲに思い知らせてやる。
誰のケツを触ろうが太ももを撫で回そうがむろん個人の自由だろう。イルカさん以外ならな。
しかも己の魅力ではなく地位に頼ってセクハラするとは卑劣極まりない。絶対絶対許してなんてやらない。クビにして路頭に迷わせてやろうじゃないか。
まずは他にもセクハラにあった人間を捜し出して復讐を持ちかけるのだ。
意欲に燃えた俺は、イルカさんの前を通り過ぎかけて慌てて立ち止まった。
おっと、こんな大事なことを忘れるなんて!
ネクタイを結んでもらわないと。
「イルカさん、これお願いします」
とネクタイをひらひらさせて頼むと、笑顔で『はい』と頷いてくれる。
イルカさんがネクタイを結んでいる時に、ふと横を見ると今日の社長のスケジュールが目に入った。
「今日は社長、外出しないんですか」
「あ、はい。今日は一日社内で過ごされます」
なんとラッキーな!
それならイルカさんをランチに誘えるじゃないか。
社長秘書なんて昼時は社長と共に外へ出ていたりしてなかなか捕まらない。
「イルカさん。今日のお昼、一緒に外へ食べに行きませんか。安くて美味しいランチの店があるんですよ」
こんなこともあろうかと、前々から店はピックアップ済み。日頃の努力がものを言うのだ。
「あ、すみません。俺、今日は自分で弁当を作ってきてるので……」
「そ、そうなんですか」
手作りかぁ。
一緒に食べに行けないのは残念だったが、弁当を作るイルカさんを想像すると気分が和らぐ。
そんなことを考えてぼんやりとしていると、
「よかったら社員食堂に行きませんか。あそこだったら弁当持込OKですから」
などと言う。
「え。いいんですか!」
最近の俺は幸運に恵まれているようだ。
食堂の前で正午に待ち合わせることを約束して仕事へ戻った。


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2008.06.21


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