イルカさんと二人でタクシーを見送った。
終わった。ようやく。
精神的疲労は泥のように身体の中に蓄積されている。それをすべて吐き出すつもりで溜息をついた。
今日の俺はなんて我慢強かったんだろう。自分でも驚くくらいだ。
きっと俺にも増してイルカさんが我慢していると思ったから、頑張れたんだろうと思う。
「今日は助けてもらってばかりで、全然役に立てませんでしたね俺……」
接待って難しいですねとしょんぼりするイルカさん。
「何言ってるんですか! 今日はイルカさん、あんなに頑張ってたじゃないですか」
「そんなことないです……頑張るのと成果が出るのは違います。俺、駄目だなぁ。はたけさんみたいに上手くおしゃべりできないし」
ますます落ち込むイルカさんに、俺は焦る。どうやって慰めたらいいんだ!
「別に俺は上手くないですよ。今日はイルカさんを守るのに必死だったから……!」
「え。俺?」
「あんのハゲときたらちょっと油断してたら俺のケツまで触ってきやがって。気色悪いったらなかったですよ!」
「え、お尻触られたんですか?」
そうなのだ。
ほろ酔い加減で普段よりも可愛く見えるイルカさんに見蕩れていたら、不覚にも触られた。
お前はイルカさん狙いじゃなかったのか!
頭の上に吐いてやろうかと思ったが、ゲンマが懸命に首を横に振り続けていたので冗談めかして抓るぐらいにしておいてやった。まあ、イルカさんのお尻を触ろうものならこんなぐらいで済ませるわけがないのだが。
それにしても今思い出すだけでも腹立たしい。
「イルカさんもあんなセクハラ受けたら我慢しなくて怒っていいんですからね! 会社なんかより自分大事ですよ」
これだけは言っておかなくてはならないと意気込んだ。そうだ、会社が何だ。そこまで尽くす必要はない。辞めるという選択肢だってあるのだ。
しかし、イルカさんはきょとんとした表情でこちらを見ている。
「え。あれってセクハラだったんですか? いやにスキンシップの激しい人だなぁとは思ってたんですが」
セクハラだと思ってなかったのかー!
衝撃の事実。
会社のために我慢してるのかと思った。分かってなかったなんて。まさかじいさんが身体を張れとか指示したんじゃないだろうなとちょっと疑ってたんだが。まあ、あれだけイルカ可愛い可愛いのじいさんが人身御供みたいな真似をするはずがないか。俺の勘違いだ。
イルカさんは致命的に鈍い人だった。そして人を信頼しすぎている。
そうだ。俺のネクタイだっていまだに信じて毎朝結んでくれて、疑うことを知らない。こんなんで秘書なんて大丈夫なんだろうか。すごく心配だ。
まさかまさか今までもこんなことがあったんじゃあ、と思うとぎゃーと叫び出しそうになる。
「じゃあ、もしかしてはたけさん、俺のこと守ってくれてたんですか?」
イルカさんは首を傾げて尋ねてくる。
ああ、もちろんその通りです!
「イルカさんが不愉快かと思って……でも余計なことだったかな」
気づいてないなら意味のない行為だったかも。
いや、意味はある。もちろん。あんなハゲに触らせるなんてとんでもないことだ。
「いえ、そんなこと! ありがとうございます。嬉しいです。何かお礼をしないと。何がいいですか?」
お礼。
まさかお礼が貰えるなんて! 今日は頑張った甲斐があるってものだ。
何をお願いしよう。でも、あんまり図々しいと嫌われるからここは思案どころだ。
「あの……よかったら」
「はい。何でも言ってください」
もし叶うなら常々思っていたあれをお願いしたい。
「これから下の名前で呼んでもらっていいですか」
「え?」
「俺が『イルカさん』って呼んでるでしょ。それなのに『はたけさん』ってなんていうか……あ、ほら。ロスだとみんな苗字じゃなくて名前で呼び合うでしょう? なんか他人行儀っていうか」
イルカさんが俺を見つめているのを感じて、恥ずかしくて視線を合わせられない。
やっぱり可笑しいと思われたかな。
でもこのチャンスを逃すと駄目だ。
「あ、それにゲンマだって『カカシ』って呼んでるし。アスマもそうだし、えーとえーと」
焦ってうまい言い訳が思いつかない。
「あはは。そんな簡単なことじゃお礼にならないじゃないですか」
イルカさんが屈託なく笑ったので、ほっとする。
「そうですね。お礼はまた改めてするとして、下の名前で呼んでもいいなら俺もその方が嬉しいです」
えええ、OKなんだ!
「それじゃあ、今日はありがとうございました。また明日、カカシさん」
にこっと爽やかな笑顔でイルカさんはさらりと俺の名前を呼んでくれて、去っていった。
カカシさんだって、カカシさんだって!
すごいご褒美じゃないか。
接待なんて嫌だと思っていたが、こんなことがあるなら毎日あってもいいくらいだと密かに思った。
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2008.06.14 |