【ひとつ屋根の下で】


(5)

「ただいま帰りました」
 イルカは再びカカシの部屋の前で声をかけた。
「ああーっ、ちくしょうっ」
 カカシの罵声が飛び、イルカはびくっと肩をすくめる。
 しばらく固まっていたが、どうやら自分へ向けて言われた言葉ではないらしい。そっと戸を開けて中の様子を窺う。
 部屋の中は本が散乱し、壁一面に本棚があり、そこかしこに本が山積みになっていて、まさに本に囲まれた空間と言っていい。そこには、見せ物の動物のようにうろうろするカカシの姿があった。
「どこに置いたか思い出せないっ」
 本をひっくり返してはぱらぱらと捲り、捲っては放り出し、放り出してはそこらの本をひっくり返し、その繰り返しだった。
「カカシ先生、資料をお探しですか?」
「あー、あれが載ってたのはたしか『旧約外典偽学論概要』だったと思うんだけど……ない〜」
 大の大人が泣きそうなくらい切羽詰まっている様子は端から見れば滑稽だが、当事者にとっては真剣そのものだ。それを充分心得ているイルカは、さっそく探す手伝いを始めた。
「たしかあの本は……表紙が深い緑色だったはずです。落ち着いて探しましょう」
 イルカに諭されて、カカシも多少落ち着きを取り戻した。
 二人で探し始めて数十分が経過した頃、本は見つかった。発見したのはイルカだった。
「ありました!」
「うわー、ありがとう!」
 カカシが喜びのあまり思わず本ごとイルカを抱きしめる。
「あ、ごめん」
 真っ赤になったイルカを離し、謝るカカシ。
「よかったですね。資料が見つかって」
「ホントに。よく表紙の色が深緑色だって知ってましたね?」
「いえ、前にも探していたことがあって、それで覚えていただけです」
 イルカは謙遜しているが、こんなマイナーな資料など知らない編集者がほとんどだ。それほどマニアックなのだ。いろいろな方面に精通しているのは、それだけ編集者としての能力が高いと言える。
 カカシは合格点どころか花丸だ、と思った。
「他に手伝えることはありますか?」
「あと、これとこれがあるといいんだけど……」
 汚い走り書きのメモを渡すと、イルカは頷いた。
「わかりました。カカシ先生は執筆に集中していてください。探しておきます」
 そう言って、イルカは本の山の間をできるだけ静かに探し始める。
 カカシも机に向かい、周りの雑音も気にならなくなった頃。ふと鼻がかすかな香りを感じ取った。
「少し休憩しませんか」
 お盆の上にはお茶とかき餅が載っていた。
「あ、かき餅」
「ナルトから甘いものは苦手と聞いていたので、これなら食べられるかと……」
「うん。美味しそうだ」
 好き嫌いの事前調査もきっちりしてある。気づけば、さっきカカシが言っていた資料を探し出して置いてあり、要点をまとめたメモと、役立ちそうなところに付箋が貼ってあった。
 この人、本当に優秀なんだ。カカシは感心する。
「あなた、編集に向いてるみたいだね」
「本当ですか! 嬉しい!」
 カカシは、ちょっとした誉め言葉にここまで喜ぶとは思っていなかったので戸惑ったが、笑っているイルカは見ていて嬉しい。
「そんなに編集に命かけてるの?」
「いえ、あの……姉がとても優秀な人で、昔から才能のない自分はそういう人の補佐をできたら、と思っていたので。こんなことくらいしか俺にはできないから嬉しいです」
 はにかみながらイルカはそう答える。
「え、才能ないって、あなたのしてることだって立派な才能でしょ」
「そんなこと! 才能ってもっとこう…特殊な……」
「編集ともあろう人が何言ってるかなぁ。ちゃんと辞書引いてる? 才能って『物事をうまく成し遂げるための優れた能力』ってことでしょう。こういうことも才能の一つだよ」
 カカシが探し出した資料の山を指差した。なぜかイルカが自分の能力を過小評価していることが腹立たしかった。
 イルカは驚きながらもその言葉をじっと聞いていた。
「少なくとも俺は助かってるし、尊敬するよ」
「……ありがとうございます」
 今度は目にうっすら涙を溜めて、でも笑顔は今まで以上に輝いていた。
「それじゃあ、各自仕事に戻りましょうか。ちゃんと締切に間に合わないと、森乃さんに才能無いって怒られます」
「うわー、嫌。それは絶対嫌」
「カカシ先生、頑張ってくださいね」
 イルカにかけられた平凡な応援の言葉も、今はなぜかそれが一番欲していた言葉のように思えて気合いの入るカカシだった。



 それから一週間ほどは、カカシは部屋に籠もりきりでナルトやサスケの顔を見ることもなく、イルカに『みんな元気ですよ』と言われて安否を知るだけの日々だった。
 しかしその甲斐あって、締切当日にすべてを書き上げることができた。
「終わったぁ」
「お疲れさまでした」
 椅子の上で伸びをするカカシに、イルカは労いの言葉をかける。
「イビキが来る前にできあがるなんて奇跡だな。サドの驚く顔が目に浮かぶよ」
「原稿は渡しておきますから、眠られたらどうですか」
 猛烈な睡魔が襲ってきているのはたしかだった。イビキの驚く顔は想像だけで楽しむしかなさそうだとカカシは判断する。もぞもぞとベッドに潜り込んだ。
 しかしこれだけは言っておかなくてはならないと、落ちてくる瞼を擦り、なんとか根性で持ち上げた。
「イルカさん、ありがとう。おかげで書き上がったよ」
「カカシ先生が頑張ったからですよ」
「ううん、イルカさんのおかげだよ。ありがとう…ね」
 カカシはうとうとと微睡んでいく意識の中、
「おやすみなさい。よい夢を」
と心地よく響く声をたしかに聞いた気がした。



 カカシは珍しく気分よく目が覚めた。いつもならまだ寝足りなくてぐずぐずと布団にくるまっていたい気持ちが強く、寝起きは最悪なはずなのに。
「あ〜、よく寝た」
 喉が渇いたので、台所へと足を向ける。
 そのとき、ふと違和感に気づいた。
「イルカさん?」
 名前を呼んでも何の反応もない。
 慌てて家中を探したが、どこにもいない。カカシはどうしてよいのかわからず、呆然と立ち尽くした。
 ここ何日かずっと側にいたイルカがいなくなるなんて想像したこともなかった。たったあれだけの時間しか経っていないというのに、いつの間に自分にとって必要不可欠な存在になってしまったのだろう。
 泣き出しそうに顔を顰め、カカシは途方に暮れた。
 そんなとき、玄関の扉の開く音がした。
「ただいまぁ」
 カカシは玄関まですっ飛んでいった。
「イルカさん!」
「あ、もう起きたんですか。お腹空いてませんか、カカシ先生」
 スーパーの買い物袋はわしゃわしゃと陽気な音を立てていた。
「なんだ、買い物だったんだ……」
 カカシは安心して膝の力が抜け、へなへなと廊下に座り込んだ。
「大丈夫ですか! まだ寝てた方がいいんじゃないですか?」
 心配そうに覗き込んでくるイルカに、カカシは笑って首を振る。
「いえ、大丈夫ですよ。食事は俺が作ります」
 すっくと立ち上がり、買い物袋を奪い取った。戸惑うイルカはカカシの変化についていけず、おろおろとするばかりだ。
「カカシ先生」
「大丈夫。俺ね、オムライス得意なんですよ〜」
 食べるでしょ?と振り返り、後ろからついてくるイルカに同意を求める。
「食べます! 食べますけど……」
「じゃあ、そこに座って待っててください。さぁさぁ」
 イルカはカカシの促すまま、いつもの食卓の椅子に座る羽目になった。
 キッチンからは鼻歌さえ聞こえだし、イルカは苦笑する。元気になったのならよかったと安堵もした。締切前のカカシは寝る間を惜しんで身体を相当酷使していたため、心配していたのだ。
「できましたよ〜」
 さぁ食べましょう、と出てきたオムライスは、見た目もきれいにできあがっていて美味しそうだった。真ん中にナイフを入れるととろりと卵が崩れ、下まで流れ落ちた。
「うわっ、すごく美味しそう!」
 歓声をあげるイルカを、カカシは嬉しそうに眺める。
 イルカがスプーン一杯にすくったライスを頬ばった。
「美味しい!」
「よかった! このオムライスだけは自慢で。……実は母の自慢料理でね。亡くなった後、ナルトが食べたがって泣くもんだから、必死になってマスターしたんですよ」
 嬉しそうに笑うカカシに、イルカははっとした。
 きっと母というのはナルトの実母のことだろう。若くして亡くなった義母の代わりに、味を再現しようと頑張るカカシを想像して、イルカの胸は痛んだ。
「きっと優しいお母さんだったんでしょうね」
「ええ。世界で一番好きでした」
 昔を懐かしんで遠い目をするカカシに、イルカの胸はますます痛む。
 カカシが世界で一番好きな女性。美しい人だったのは知っていた。ナルトがこっそりと写真を見せてくれたからだ。みなが思い出してしまうからか、家の中に写真が飾ってあることはない。
 二人はそれぞれ思うところがあって、静かに食べ続ける。
「あー、カカシ兄ちゃん特製ふわとろオムライスだっ!」
 ナルトの声で静寂は破られた。
「ナルト、おかえり」
「ただいまっ。俺も食いたいってばよ!」
「えー、どうしよっかなぁ。ナルトは俺の料理よりイルカさんの料理の方が美味しいって言ってたしなぁ」
 カカシが意地悪く空とぼけると、ナルトは動揺を隠せなかった。
「ぎゃっ、あれは……でもオムライスは兄ちゃんのが一番だって。ホントだよ?」
 上目遣いに見上げてくる可愛い弟に、結局断る気など欠片もなかったカカシはキッチンへと消えていった。
「カカシ兄ちゃん、締切終わったんだ! やったぁ」
 これでしばらくは遊んでもらえると喜ぶナルトを、イルカは微笑ましく眺める。血が繋がっていなくともナルトがカカシを慕っているのは一目瞭然で、だからきっと自分の目には仲の良い兄弟にしか見えなかったのだと納得した。
 そんなときチャイムが鳴った。
 イルカは、原稿を渡したイビキが忘れ物でもしたのだろうかと、玄関の扉を開けた。しかし、同じような背の大きい男ではあったが、イビキとは違っていた。
「おお、こりゃ可愛い子ちゃんじゃないか」
「え、あの……」
 いきなり手を取られ戸惑うイルカ。その手を振り払っていいのかどうかすら判断がつかない。
 誰だろう、この人は。そう思い、目の前の人物を見上げた。 
「あー、エロ仙人!」
 後からやってきたナルトが大声で叫び、大男に向かって飛びついた。それから山を制覇するようによじ登り始めた。
 イルカは慌てて止めようとしたが、これが日常茶飯事らしく相手も気にしていないようだ。
「お前、また重くなったのぉ」
「へへへ。あったりまえだってばよ」
 男はナルトを肩車しながら、イルカの肩を抱いたまま家の奥へと入っていく。
 知り合いなのだろうが、この状態はすごく恥ずかしいとイルカは困った。
「あ、伯父さん」
 できあがったオムライスの皿を片手に、カカシが出迎えた。
 しかし、その姿を見た瞬間から不機嫌そうになり、食卓にどんと皿を乱暴に置く。
「ナルトはそれ食べな。イルカさんはこっちに座って」
 肩車をしていた大男はそのままそこの椅子に座るしかなく、イルカはようやく肩に置かれた腕から解放されてカカシの隣に座ることができた。
 伯父と聞き、イルカはようやく納得できた。ナルトが懐いているのも頷ける。しかし、カカシはむすっとしたままで、イルカはちらちらと隣の様子を窺うしかなかった。
「で、何の用ですか」
「何ってなぁ。わしもようやく締切が終わったし、聞けばカカシも原稿できたんじゃろ? それで、綱手に聞いてた新しい家族ってのを拝みに来たってわけだ。なぁ?」
 イルカは急に意見を求められ驚いたが、まだ自分が挨拶もしていないことに気づいた。
「は、はじめまして。イルカです。よろしくお願いします」
「イルカさん。別にこんなのによろしくしなくてもいいんですよ」
「ほほぉ。カカシたちと違って、素直でいい子だのぉ。わしは自来也だ。よろしくな」
「自来也って……もしかして、自来也先生!?」
 名前を聞き、イルカは驚いて目を見開いた。
「エロ仙人って有名なんだー」
 もごもごとオムライスを食べながらナルトがしゃべっている。
「わはは。なんといっても書くものすべてが大ヒットの天才じゃからの!」
「ただのエロ作家のくせに。あの本、すっげーつまんないってばよ」
 高笑いする自来也の横で、ナルトはぼそりと呟いた。
「なんか言ったか、ナルト?」
「なんでもなぁい。ごちそうさま!」
 食べ終わった皿を流し台に運び、イルカの教育の賜物かきちんと洗っている。水切り台にのせると、その後は自然乾燥でいいと思い込んでいるらしく、さっさと戻ってくる。
 ナルトは自来也に遊びに行こうとせびり、渋る大人を引きずって外へ出かけてしまった。



 残された二人は、いきなりどうしてよいかわからず気まずい沈黙に包まれた。
 しかし時間が経つにつれ、だんだんとカカシの機嫌も回復してきたようで、それを見計らってまずイルカが口を開いた。
「あの……自来也先生のこと、お嫌いなんですか?」
「え」
「さっき機嫌が悪そうだったので」
 思いきって言ってみた。
「あれは、だって! イルカさんに気安く触ってたから……」
 最後の方はぼそぼそと声が小さくなっていく。
「俺が?」
 イルカが聞き返したのに力を得たのか、カカシは再び声を大きくした。
「ああいうのはセクハラで訴えていいんですよ」
「でもあれは、親愛の情を込めたスキンシップなのでは?」
 イルカ自身は迷惑ではあるが、だからといって訴えるというのは大げさだと考える。
「何言ってるんですか! あの人はね、可愛い子と見れば、女も男も問わず口説きまくるって有名なんですよ! 気を許しちゃいけません」
「はぁ」
 なぜか懇々と説教し出すカカシに、イルカは頼りない返事を返すしかない。
「でも、別に俺は可愛くもないし。あまり関係な……」
「何言ってるんですか!」
 どん!とカカシがテーブルを叩いた。その剣幕に驚いてイルカは瞬間飛び上がりそうになった。
「イルカさんは自分がどれだけ可愛いかわかってない!」
「え?」
「俺がどれだけあなたを好きかもわかってない!」
「え、え?」
 いつの間にかすり替わった論点に、イルカは対応しきれない。
 カカシもついキレて言ってしまった告白に舌打ちしそうだったが、口から出たものはもう戻らない。今からでもいいから、できるだけ真摯に気持ちを伝えようと思った。
「俺はあなたが好きだから、誰にも触ってもらいたくないんです」
 イルカの手を握りしめて、瞳をじっと見つめる。
「信じられない……」
 イルカは頬を真っ赤に染めて俯く。けれど手は握られたままで、逃げ道はなかった。
「カカシ先生は知らないだろうけど、俺は昔から先生の本をいつも繰り返し読んでいて、ずっと好きでした……」
「好きなのは本だけ?」
 カカシは期待で瞳を輝かせる。
 本というけれど、書いた文章はすなわち書き手の好みや感情・思想のすべてを削ってできあがったもの。それを好きだと言ってくれるのならば、書いた本人を好きになる可能性だって少なくはない。
「もちろん、本人も……」
 蚊の鳴くような声で絞り出された答えだったが、それでもカカシの耳にははっきり聞こえた。
 俯いたまま真っ赤になっているイルカを、カカシはぎゅっと抱きしめた。
 しばらくはそのままで充分幸せだったが、人間慣れると欲が出てくる。顔を見たくなる。けれど、いつまで経ってもイルカは俯いたままで、腕の中の人の顔をどうしたら見られるのかとカカシは頭をひねった。
 そして、あれを使ってみてはどうかと閃いた。
「もしも一生のうち誰か一人しか恋することができないと神様が決めたなら、俺は絶対あなたがいい」
 カカシの言葉に、おずおずと顔を上げるイルカ。
 それはカカシの書いた本の中の台詞で、誰もが知っている愛の言葉だ。
 イルカが読んで覚えているという前提で言ってみた。それに反応するかどうかは一種の賭だった。
 しかしカカシは賭に勝ち、イルカの顔は目の前にある。
「俺も間違いなくそう思うでしょう」
 答えも本の通りの答えだった。もちろん、俺と私との違いはあったが。
 カカシは心底喜びで胸がいっぱいになり、たまらずイルカの唇に自分のそれを重ね合わせた。


●next●
●back●
2004.10.03初出
2011.08.27再掲


●Menu●