決して失ってしまわないようにとどんなに握りしめていたとしても、指の間からさらさらと流れ落ちる砂のように零れていってしまう。いつかは必ず。自分の愛する人が確実に死に向かっていることへの猛烈な恐怖。じわじわと真綿で首を絞められるようなそれに、耐えられないと思った。
じゃあ先に死んでしまえばいいと思ったりもしたけれど。
俺が死んでしまったらあの人の世話は誰がするんだ。最期を看取るのは俺じゃない人間が?
そう考えるだけで、もう死ねなかった。
『一緒にいられて幸せです』
そんなことを言うあの人の微笑みを思い出すだけで、涙が出る。
側にいて欲しいと望んでくれるというのなら、それを叶えてあげたい。時間は限られていて、くだらないことに費やしている暇などありはしない。
早く帰らなくては。
もう居ても立ってもいられなかった。
「先に帰る」
アスマにそう言い残して里へと向かう。話が途中なのも今は関係ない。後始末は誰かがするだろう。
駆け出した足は、自然と速くなっていった。


「イルカ先生、ただいま」
眠っているのを起こさないようにと声をひそめたつもりだったけれど、起こしてしまったようだ。
緩く握られた手がぴくりと動き、ゆっくりと瞼が開いていく様をじっと眺める。
ぼんやりとした視線は宙をさまよい、一瞬焦点があったように見えた。でもそれは気のせいにすぎない。おそらく視力はそれほど残ってないのを俺は知ってる。
「おかえりなさい」
それでも気配はわかるのか、血色の良くない唇が微笑みの形をとっていく。なんだかそれだけで胸が痛い。
「気分は?」
「大丈夫。調子はいいんです」
この人は平気で嘘をつくから信用ならない。
不安になってそっと頬を撫でると、
「本当ですよ」
と、くすぐったそうに笑う。
その様子に、本当に調子はいいようだと安堵した。よかった。
「痛みがなければ少しはいいんでしょうけど」
溜息混じりにそう言うと、痛むのもそう悪くありませんよ、などと言う。
「痛いってことは生きてるってことですからね」
笑いながら紡がれる言葉に、少し泣きそうになりながら耳を傾ける。
「最初は、痛むしかないこの身体をはやく脱ぎ捨ててしまいたい、と思ったりもしたけど。でも、きっと後悔するだろうと思い直しました。だって身体がなくなったら、こうしてあなたに触れることもできなくなるから」
そっと触れてくる、その微かに震える指先の感触に、俺はたまらない悲しみと愛おしさを感じた。
ああ。
あなたがいないと、この想いは行き場を失って体の中で破裂してしまいそうだよ。
本当は泣き出したかったけど、俺が泣くといつも頭痛がする時よりも悲しそうな顔をするのを知っているから、
「そうですね」
と言いながら、無理に笑ってみせた。


こまごまとした家事を済ませてベッドに戻ってくると、疲れたのかイルカ先生はもう眠りに就いていた。
その隣に静かに滑り込んで、じっと見つめる。
大丈夫、まだ息をしている。
それはいつもの確認事項だ。
耳を澄ませて刻まれる鼓動を聴き、その温もりを感じて安堵する毎日。それでも、いなくなってしまうよりも比べものにならないくらい幸せな日々。
きっとあなたが死んでしまったら、この世界は崩れ去るだろう。俺にとっては。
そのときを想像するだけで心が凍りそうだ。
突然と肺の奥の奥から溢れてきた嗚咽と共に、涙が込み上げてきた。
駄目だ。せっかく眠っているのに起こしてしまう。
慌てて奥歯を噛みしめて堪える。ひっそりとした空気に、眠りを妨げていないことを確認してほっとした。
もう喉が痙攣することはなかったけれど、涙はとめどなく流れてきて枕を濡らす。その間も目は離さずにずっと見つめていた。
きっと俺は、世界が終わっても愛し続けるだろう。
そんなことはわかっている。わかりきったことなどどうでもいい。
今はただいつまでもこうしていたい。ただそれだけだ。
ずっとこのままでいられるというのなら、俺は死神に魂を売り渡すだろう。世界を引き替えにしてもいい。何を犠牲にするのも厭わない。方法があるというのなら、きっとそうする。
けれど俺にはなんの力もない。苦しみを和らげる力さえも。
明日がこなければいい。
世界の終わりなんて永遠にこなければいい。
今朝から何十回目かの溜息をつき、寝ている愛しい人の呼吸が規則正しいのを確かめて、俺も目をつぶった。


END
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2004.09.04


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