『ただいま』
そう言ってたしかに此処に帰ってきたはずなのに。
手を伸ばして触れようとした瞬間に、その姿は幻のように消え失せ、あの人の匂いだけが微かに残された。
夢だったのだろうかと思った。
心配するあまりに見てしまった夢。そうかもしれない。
けれど、どうしようもなく本物のような気がした。実際に目の前に存在した。
自分でも迎えるために立ち上がっていたのだから。
不思議な体験だった。
何か術を使ったのかどうか、あの人が帰ってきたら聞いてみようかと思った。
それが叶うことは決してないことを知ったのは、それから数日後。
発見された遺体は幸せそうに微笑んでいた、と人づてに聞いた。
酷い話だ。
あれで約束を守ったと思っているのだから。
必ず帰ってくる、というのはあんな意味じゃなかった。
決してあんな意味じゃなかった。
「嘘つき」
詐欺じゃないか。
あんな子供騙しで誤魔化して、俺を一人置いていくなんて。
今さら俺にあなたなしで生きていけというのか。
『俺は必ず此処に帰ってくるけど。もしも、もしもだよ?俺がいなくてもあなたには笑っていて欲しいなぁ』
無茶苦茶だ。
そんなことばかり言って。
嘘つきで、肝心なときに側にいなくて、酷い人。
そんなどうしようもない人だけど、誰よりも誰よりも好きだったのに。
いなくなってしまった。
わかってる。
それでも生きていかなければならないことぐらい。
どんなに悲しくても腹は減り、どんなに辛くても心臓は止まらない。
たとえ身体の一部がもぎ取られただけでは死なないように。
心に穴が開いたまま生きていかねばならない。
ちゃんとわかってるから。
明日になればちゃんと笑うから。
だから今は、今だけは許してほしい。
涙が止まらない自分を。
お願いだから。
明日はきっと。
「イルカ。これ、お前ん家の鍵だろう」
手渡された鍵は、本当にそうであるかすら判別不能だった。
ベットリとこびりついた血が、どす黒く乾いていたから。
けれど、きっとアスマ先生がそう言うのだからそうなのだろう。
きっとあの人が持っていたのだろう。
「捨ててください」
「いいのか」
「もう要らないんです」
もう約束が果たされることはない。
同じ所に帰る人はもういない。
もういないんだ。
「使わないなら、一緒に燃やして空に送ってやれよ」
「空に?」
「あいつもきっと持って行きたいだろう。最期まで握りしめていたしな」
「……はい」
胸が詰まった。
やはりあの人は約束を守った。
嘘つきじゃなかった。
約束通り帰ってきた。いつものように微笑みながら。
果たされた約束の証。
「不思議ですね。もう、笑っている顔しか思い出せない」
いつも笑ったり怒ったり不貞腐れたり、時には泣いて。
なのに、今は笑っている顔しか思い浮かばない。
「そういうもんだろ。あいつもそう望んでいるはずだ」
「そうですか?ちょっと狡いですよね」
「まあ、そう言うな」
頭をくしゃりと掻き回された。
じわりと滲んでくる涙をごしごしと拭い、口の嘴を吊り上げる。
大丈夫。まだ笑える。
何度も何度も心の中でそう唱えた。
唱え続ける間もまだ涙は滲んでくるけれど。
大丈夫。まだ立っていられる。
約束は守られたから。
あの人は帰ってきたから泣くことはない。泣く必要なんてない。
ちゃんと『お帰りなさい』と伝えられてよかった。
一人寂しく逝ってしまわなくてよかった。
そう考えて、細くかすかな息をゆっくりと吐き出した。
鍵は一筋の煙と共に、空に昇っていきました。
END
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2003.05.02 |