二人で大きな樹の根本に座り込む。
しばらくすると、カカシ先生がぽつりぽつりとしゃべり始めた。
「俺ね、よく思うんです。どうして犬に生まれてこなかったんだろうって」
「カカシ先生……」
「四つ足で走るにはこの手足は長すぎて邪魔だし、牙は小さくて役に立たないし。小さい頃から兄弟に負けてばかりいました。どうして俺はこんな不格好に生まれてきたんだろう……もっと早く疾走できる足や、ふさふさした尻尾が欲しいってずっと願ってました」
小さい頃、どれほどそう願ったのだろう。
周りを見回せば自分だけが違った異質な存在で。犬として暮らすのに適さない自分の姿をどれだけ悲しんだのだろうと思う。まるでみにくいアヒルの子のように。
人間から見たら理解しがたいことも、本人にとっては真剣な願いそのものなのだ。
生まれつきでどうしようもない手に入らないものを望んでしまうのは、それが彼にとって価値あるものだったからだ。それが生きていくすべてだったから。
『面食らったままだ』というあの言葉通り、いまだカカシ先生の中では犬であることが存在意義なのだろう。周囲の人間たちの反応を不思議だと思っているのかもしれない。
「それは今さら叶わない願いだとわかっているけど。でもりっぱな犬になりたいって強く思うんです」
その願いを否定することなんてできない。心からの願いだと知ってしまったから。
痛む胸をぎゅっと押さえて耐える。
「あ、でも、りっぱな犬って言っても、外見じゃなくてね」
カカシ先生の話はまだ続いていた。
《人は、犬より一と「点」が足りない。だから人の足りないところは犬がおぎなってあげるんだよ。それがりっぱな犬というものだ》
育ててくれた養い親は、いつもそう言っていたのだそうだ。
仲間を思いやり、必要なときには力を貸し、愛する者のために強く優しくあって支えになる。そんなりっぱな犬に。
それがりっぱな犬だというのなら、俺は意味を勘違いしていた。
ただ犬になりたいのだと、人間を否定されているのだと思っていた。そんなことには拘らない、もっと大きな言葉だったのだ。カカシ先生の気持ちを全然わかってなくて恥ずかしかった。
「でも俺は、イルカ先生に足りないものなんて思いつかなくて。……りっぱな犬であればきっとすぐにわかると思うんです。そして、もし俺がそうなったら、イルカ先生がもっともっと俺のことを好きになってくれるかもしれないって思うんです。だから」
だからりっぱな犬になりたいと?
呆然だった。そんな意味だなんて考えたこともなかった。
「でも、カカシ先生が好きなのは柴犬なんでしょう? 俺は人間だし……」
なんだか信じられなくて、呆然としながら無意識に言い返す。
「そんなことありません! 好きなのは柴犬じゃなくて、イルカ先生です」
もちろん柴犬だって好きですけど、と小さな声で呟く。
それから、恥ずかしそうに俯いてしまった。正座したまま。
そういう礼儀正しいところはカカシ先生らしくて、この状況にもかかわらず笑ってしまいそうになる。
「人間でいいから。犬じゃなくてもいいから。ずっと側にいてください」
それは俺こそが願っていたことだ。まさか相手から言われるとは思っていなかった。
夢であの輪の中に入っていけなかったのは、見えない壁のせいではなく、ただ単に自分の足が動かなかったせいなのかもしれない。言葉が通じなかったのは、叫んでいるつもりでも声が出ていなくて届かなかっただけかもしれない。
今ちゃんと自分の気持ちを伝えなくては。
「俺もカカシ先生が好きだから、ずっと側にいてほしいです。あなたが笑いかけてくれるならきっと幸せになれるでしょう」
「本当ですか!」
「はい」
「笑うくらいでいいのなら任せてください」
カカシ先生は嬉しそうに笑って、そう請け負った。
「俺も、イルカ先生が笑ってくれると最高に幸せです」
そうとも言った。
それは俺だって同じだと思った。
「カカシ先生は犬に生まれてきたかったかもしれないけど……俺はカカシ先生が人間でよかったと思ってます」
俺がそう言うと、カカシ先生は不思議そうに首を傾げた。
「だって犬だったら、こうしておしゃべりすることも手を繋ぐこともできなかったでしょう?」
「そうか! そうですね。……俺、人間に生まれてよかったかもしれない。今初めてそう思います」
そう思ってくれるなら嬉しい。
俺と一緒にいてよかったと思ってくれるなら嬉しい。
人間として生まれた自分を疎ましいと思わないなら嬉しい。
言葉が通じることがすべてではないかもしれないけれど、それでも話せることは大事だと思う。
時には言葉自体が邪魔をして、気持ちが通じなくなったりすることもあるけれど。もしもそんな時は、じっと瞳を見つめて訴えてみようか。きっと犬みたいに敏感なカカシ先生ならわかってくれるはずだ。
手を伸ばし、脅かさないようそっと頬に触った。
くすぐったそうに閉じられる左目の瞼に指を這わせる。傷を撫でると気持ちよさそうに微笑みを浮かべた。
左目は普段隠されているだけあって、なんとなく大事な部分だと認識している。それを惜しげもなく晒され、触れることを許された自分は、やはり特別な気がする。
こんな風に自分の指でなぞり、感触を確かめられるのは人間の手だけではないだろうか。
しかし人間に生まれてよかったと思う反面、それでも思うことがある。
「俺もりっぱな犬になりたいなぁ」
小さく呟いた言葉は、たぶんカカシ先生の耳には届かなかっただろう。
でも本当にそう思う。あなたの足りないところをおぎなえる、りっぱな犬になりたいよ。
ずっとずっと側にいたらそうなれるだろうか。
笑いたいときは一緒に笑い、泣きたいときにはぎゅっと抱きしめて一緒に泣こう。喧嘩したいときは喧嘩したっていい。そして後でごめんねと謝って許し合うのだ。
きっとそれは人間だろうと犬だろうと変わらない。
そんな幸せな毎日のために。
りっぱな犬になりたいと願う。
END
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2005.09.18初出 2011.02.26再掲 |