イルカはわかってない。おれにとって今の暮らしがどれだけ嬉しいか、そしてどれだけ意味があるかも。
寂しいことなんて何一つない。ここにはイルカがいる。
日本に未練はない。母が亡くなって帰る家はなく、もう故郷と呼べるものもないのだ。けれど、この島をこよなく愛するイルカには理解しがたいのかもしれない。
時間はまだまだある。すぐにわかってもらおうと急ぐ必要はない。
「桜が咲くのが楽しみだね」
そう言うと、イルカは頷いた。
「そのうちね、毎年桜吹雪が見られるようになるよ」
「桜フブキ?」
きょとんとした顔をして、黒い瞳は大きく見開いている。
「そうか。イルカは吹雪を知らないんだ」
こくりと頷かれた。
そう、この島では実際に見ることはない。雪も桜吹雪も。
まったく異なった環境なのだと今さらながらに知った。
「とても綺麗なんだ。花びらが舞うんだよ」
「本当に?」
イルカは瞳を輝かせている。
その反応に、見せてあげたいと切に願う。
「本当だよ。だから、いつか一緒に見よう」
イルカは嬉しそうに頷く。
「それまではカ・カシとずっと一緒?」
「それまでだって、それからだってずっとだよ」
そうしたら信じてもらえるかな。俺の居場所はここしかないってこと。
イルカは遠慮がちに小さく『約束』と呟いた。
「うん、約束。誓うよ」
そう言えば、いつものはにかんだ笑顔がすぐ側にあった。
愛しさが込み上げてきて、イルカをぎゅっと抱きしめた。そっと抱きしめ返されることの喜びは、今まで出会ったどんな幸せにも叶わないと思う。
「でも、まだまだ咲かないね」
イルカは振り返り、残念そうに苗を見つめた。たしかにその小さな苗を見れば、それは明らかだった。
「うん。いいんだ、時間がかかっても」
花が咲くにはまだ何年もかかる。
でも必ず咲くだろう。
この南の島に桜が咲いて。
もしかしたらそれは、端から見たら違和感を感じるかもしれない。誰もが初めて見る花だから。
けれどいつかそれがあたりまえになって、島人たちに受け入れられる。この俺のように。
この地に桜の花が咲く頃には、俺はもうすっかりここに馴染んだ住人になっていて。日本を懐かしいと思うのではなく、ただ島の風景の一部になった桜を何よりも愛しいと思うだろう。
その日がくるのが楽しみだ。


ここに根付き、この南の島に溶け込んでいく。すべてが。
雪を見たことのない愛しいあなたと、いつか桜吹雪を見よう。
きっと美しいだろう、南の島に咲く花は。


END
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2006.01.28


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