最近よく眠れない。
理由はよくわからない。これといって思い当たる節はない。疲れが溜まっているわけでもない。だから改善しようがないのだけど。
なんとかしないといけない。不眠は気分も鬱屈していくし、そのうち日常でも支障が出てくるだろう。そうならないうちにどうしても解決しなければならない。
気持ちだけが焦っていた。まるで蟻地獄に落ちる蟻のように。
「カカシ先生。なんかヤなことあったってばよ?」
部下にそう聞かれた。
ナルトは人の感情に敏感だ。常人でも気づかないことも察するらしい。
「まあ、ちょっと寝られないだけだ〜よ」
軽く答えたつもりだったけれど、ナルトは黙ってしまい考え込んでいる。
余計なことを言ったかなぁ。
「これは誰にも内緒なんだけど……」
ナルトが声を潜め、もっと近くに寄れと俺を引っ張る。
上忍として周りには誰も居ないことは確認済みだったが、とりあえずナルトの言動に付き合うことにした。
「俺もすっごく落ち込んだり嫌なことがあって眠れない時とかあるよ」
九尾の器よと里中の人間から疎まれるナルトは、これまで何度も耐えきれないほどの仕打ちを受けてきたのだろう。でも、そんな深刻な悩みと俺の不眠は全然違うと思うのだが。心配してもらって申し訳ないくらいだ。
「そういう時は、どうしても我慢できなかったらイルカ先生のところへ行くんだ」
行ってどうするのか、と興味が湧いた瞬間、ふっとあの黒い髪と黒い瞳が頭の中を掠めた。
「そんで、毛布に触らせてもらう」
それはくすんだ空色の毛布だと言う。それに触るだけで嫌な事なんて忘れて幸せな気分になれるのだそうだ。
「そしたらすぐ寝ちゃうんだ。効果バツグンだから、カカシ先生も行ってみるといいってばよ」
ナルトはお得情報を教えたことに満足したのか、晴れやかな表情で去っていった。
さて、どうしたものか。
今の話を信じていないわけではない。効果があるならちょっと試してみたいと思うぐらいには切羽詰まっているし。
が、アカデミーの先生宅へ俺が突然訪ねていってもいいのかという問題がある。
ナルトはいい。可愛い教え子だ。訪問すれば歓迎されるだろう。でも俺の場合は? 上忍が突然毛布を求めて訪ねてきました、では笑い話にもならない。
しかし、ナルトがせっかく自分の痛みまで晒して教えてくれたのに、無視してしまっては悪い。躊躇いつつも勧めに従うことにした。
家の前まで行って、扉をノックする。
「はーい」
空いたドアの前に、毛布を抱えたイルカ先生がいた。
「あ、れ? カカシ先生……?」
相手の戸惑いを隠せない様子に、だんだんと緊張してきた。何やってるんだろう、俺は。
「あのっ、あのですね。毛布を……」
イルカ先生の顔がぱぁっと朱色に染まる。ぎゅっと毛布を持つ手に力が入り、俯いたまま黙り込んでしまった。
何か悪いことを言ってしまったかと焦る。
「いえ、あの、ナルトがですね。イルカ先生の毛布に触らせてもらうといいって……」
そう言った途端、イルカ先生の表情が変わった。
「ナルトが?」
「あ、はい」
しばらくイルカ先生は思案中だったが、きゅっと唇を引き締めると俺をまっすぐに見つめてきた。
「どうぞ。狭いところですが、お入りください」
こじんまりした部屋はイイ感じに散らかってる。なんていうんだろう、片付きすぎると冷たい感じがするけど、かといって足の踏み場もなければ汚くて不愉快だ。ここはそうじゃない。とても心地よい空間に感じた。
お茶を運んできたイルカ先生は、小脇にしっかりと毛布を抱えている。片時も離さない。
「あの、ナルトから聞いてるかと思いますが。俺は家に帰ると毛布を手にしていないと落ち着かないというか……」
そこまでは聞いてなかった。毛布というからには一緒に眠るときに被るものと勝手に思い込んでいた。が、想像していたのとは少し違う。
見た目は誰の目から見てもただの汚い布きれ。何年も何年もボロボロになるまで使い込んであって、元の色を想像できないくらいくすんだ空色の毛布。子供用の小さなもので、大人が持てばほとんど膝掛け程度の大きさだった。
幼い頃からずっと使っているのだと聞いて納得した。
「帰宅して一人になって。今日一日気に入らない事があったら毛布にくるまる、不機嫌になる事があったら毛布を撫でる。そんな風に過ごすのが一番のやすらぎというか……手放せないんです」
一種の精神安定剤のようなものだろう。
イルカ先生は恥じ入っていたが、何に頼ってもかまわないと俺は思う。それで日常のバランスが保てるならいいじゃないか。外ではイルカ先生は周りが口を揃えるくらい立派な教師なわけだし。
そう伝えると、イルカ先生は伏せていた目をあげて、嬉しそうにはにかんだ。
わっ、なんだそれ。反則だ!
いったい何に対して反則なのか、それすらわからなかったが。そう思ったのは確かだ。
「えと、カカシ先生も触ってみますか?」
「いいんですか?」
「ナルトが話したということは、カカシ先生も何かお困りなのでしょう?」
そういえばそうだった。ナルトの紹介だからこそここまで通してもらえたことをようやく思い出した。
「あ〜。最近あまり眠れなくて」
「それは大変ですね」
イルカ先生の眉間に皺が寄る。心配してくれているのが分かった。
「じゃあ今日は泊まっていかれるといいですよ」
あっさり言われて驚いた。上忍だから気を遣っているのかと疑ったが、どうやら本気で不眠を憂えて何とかしたいと思ってくれているらしい。
結局イルカ先生の言葉に甘えて、ありがたく泊まらせてもらうことにした。
布団を二組敷き、毛布を挟んで向かい合わせになる。
イルカ先生は愛おしい事この上ないという表情で毛布に触り、すーっと眠りに就いた。あまりにも寝るのが早かったので冗談かと思ったくらいだ。が、寝息は規則正しく、正真正銘寝ているのだ。
俺もおそるおそる毛布に触ると、ふにゃふにゃとした手触りがすごく気持ち好い。なるほど、これなら手放せないのは無理もない。俺だってずっと触っていたいと思うのだから。
ふと気づけばもう朝だった。
驚くくらいよく眠れた。それはもうぐっすりと。今までこれほどよく寝たことなんてなかったんじゃないかと思う。幸せな気持ちで目が覚めた。
この毛布さえあれば俺は無敵にだってなれるような気がした。
「イルカ先生! この毛布がどうしても欲しいです。俺にください」
「無理です。あげられません」
答えは想像通りだった。
そりゃそうだろう。誰だって宝物を手放すわけがない。でもわかっていても、どうしても欲しい。俺は取り憑かれたようにそう思った。
そんな強い想いが伝わったのか、イルカ先生は言った。
「でも、そんなに気に入ってくれたなら、カカシ先生には特別に触らせてあげます」
訪ねてくるなら触ってもいいし眠っても大丈夫、と言われて一も二もなくその提案に飛びついた。
外で毛布のことは絶対話さないことが条件だった。毛布を手放せないのは、イルカ先生の中では人に知られたくないことらしい。そこまで気にしなくてもいいのにと思ったが、秘密を共有できるのはなんだか嬉しかった。
こうしてイルカ先生のお気に入りは、俺のお気に入りに加えられた。
●next●
2009.06.07初出
2009.10.31再録 |