それからの俺は、毎日イルカ先生宅を訪れた。どうせなら夕飯も一緒にということで、ほとんどここに住みつく住人と化す。
毎日が幸せだった。辛いことがあっても、夜毛布にくるまって眠ることを思えばどんなことも耐えられる。きっとこれを取り上げられると、不安が募り動悸息切れがして生きた心地がしなくなるだろう。俺にとっては手放せない幸せだった。
がしかし。
「イルカ先生の恋も実るといいわね」
ある日、職員室まで迎えに行った時に、同僚と話しているのを偶然聞いてしまった。
恋をしている。それは衝撃の事実だった。
イルカ先生の好きな人……もしかしてその人は「特別ですよ」と言われてこの毛布を触らせてもらうんだろうか。普段誰も見たことがないくらい優しい笑みを自分だけに向けられたりするんだろうか。
嫌だと思った。そんなことして欲しくない、絶対。
阻止しなければと思った。俺の今の幸せのために。
「イルカ先生。好きな人がいるんですって?」
家で二人っきりになってから、本人に問い質してみた。
「えっ」
みるみるうちにイルカ先生の顔が染まっていく。それがどんな言葉よりも雄弁に物語っていた。
やはり事実だったのだ。それでは今の幸せな生活は崩れ去ってしまうのか、と思うと手が震える。
いや、諦めるにはまだ早い。
「その人は毛布のことを知ったら、なんて思うんでしょうね」
もし馬鹿にしたら、そんな人間好きになる価値はないって否定できる。咄嗟にそう思った。
そうしたら毛布がなければ生きていけないイルカ先生は、その恋を諦めるはずだ。きっと、絶対。そして今のままの変わらない日常を送れるんだ。
「いいんです、もうとっくに知ってますから。だから好きだと告白するつもりです」
イルカ先生は事も無げに言った。すでに決意は固いのだろう。
もう止める手立てなんて残っていなかった。あんなに大事にしていた毛布でも引き止められない。俺ごときじゃなおさら。
もうこの世の終わりだと思った。俺の方こそ生きていけない。
「これ、カカシ先生にあげます」
「え?」
「俺はもう毛布から卒業しようと思います。持っていると頼ってしまうから。でも捨ててしまうのは忍びなくて……カカシ先生はこれをすごく気に入ってくれてたでしょ? 使ってください」
てろんとした毛布は、呆然としているうちに腕の中に押し込まれていた。
いつも通りの感触。
けれど、柔らかな肌触りも俺の心を浮き立たせてくれない。あんなに欲しいと思っていたのに?
そう、ようやく気づいたんだ。
俺が欲しかったのは毛布じゃなかった。心地よかったのは毛布じゃなくて、それに必ずついていたイルカ先生の方だった。
気に入っていたのは誰にも見せないような寛いだイルカ先生を見られるから。眠れるのはイルカ先生の暖かい体温を間近で感じていられるから。
本当は出会った頃から好きだった。いつもイルカ先生のことを考えるから眠れなくなって。朝遅刻して。何とかしたいと思っていたのはこの恋心であって、不眠じゃなかった。アホみたいにその張本人に救いを求めてた。
俺はすごい馬鹿だ。もしかして世界で一番馬鹿かもしれない。
どうして今の今まで気づかなかったんだろう。イルカ先生が毛布より好きな人ができたっていうのに。
でも、この気持ちを伝えないまま終わりたくない。どうせなら当たって砕けたい。たとえ砕けるのが確実であっても。
「俺、毛布よりイルカ先生がいいんです」
「ええ?」
「イルカ先生が好きなんです。一生側にいてくれたら、毛布なんかなくたって俺はいつも幸せなんだ」
腕の中にあった毛布をイルカ先生に押し返す。
「毛布はこれからもイルカ先生が持っててくれてかまわないから、俺にイルカ先生をください」
どうかお願いです。もう毛布が欲しいなんて言いません。
祈るように見つめると、イルカ先生は泣き出しそうに顔を歪めた。
「カカシ先生は卑怯だ」
「ええっ」
俺のどこが?
誰かに卑怯と言われても今までは気にすることもなかったが、イルカ先生にそう責められると非常に困る。
「だって俺をあげた場合、必然的に毛布もついてくるわけじゃないですか。カカシ先生は欲しい物を両方手に入れるってことですよね?」
そう言われてみればそうかも。
「あっ、いや。別に毛布目当てじゃないですよ! そうじゃなくて……!」
慌てて言い訳しようとするが、うまく説明できなくて焦る。
「もう、いいです。卑怯でもいいんです」
よくない! そんな、イルカ先生。
泣きそうなのは俺の方だ。
そんなところへ、ポスッと毛布ごとイルカ先生にタックルされた。
「だから両方あげます」
「え」
突然と飛び込まれた意味がよくわからなくて呆然とする。
「俺の好きな人っていうのは、カカシ先生のことですから」
消え入りそうなくらい小さな声だった。けど、確実に聞こえた。
うわぁ、なんだこの九回の裏満塁逆転ホームランは!
感動に打ち震えていると。
「やっぱりいりませんか?」
上目遣いで尋ねられて、思いきり首を横に振った。
「いりますいります! もちろんありがたくいただきます!」
俺は可能な限り叫ぶと、目の前にあったものをぎゅっと抱きしめた。
イルカ先生と毛布。今は両方がこの手の中にある。どちらも触れるだけで幸せをもたらしてくれる。
その感触に『ああ、やっぱり俺は無敵になれるかもしれない』と思ったのだった。
END
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2009.06.07初出
2009.11.07再録 |