閑話その1 溜息の多い日常


自宅に自分を待っている生き物、生き物と行っても犬や猫といった普通の動物ではなく自称カップラーメンの精、手の平サイズのイルカという名の小人が待っているため、俺は毎日きちんと帰宅して朝・夜と自炊をするという健康的な日常を送っている。
元々外食よりも自炊の方が性にあってはいるのだが、こうも連日帰りがてらに買い物をして帰宅して食事をつくるなんてのは、ここ2、3年ないどころか、生まれて初めてではないだろうか。
今日も今日とて、肉屋の前で昨日は豚肉だったから今日は鶏肉にでもしようかなぁと悩み、八百屋の前で残っているネギ半分にキャベツ1/4を処分するためにモヤシを買って野菜炒めにでもしようかなぁと悩み、豆腐が半丁残っているから味噌汁は豆腐となめこにしようと決めたり、たまには甘いものでも買って帰ろうと和菓子屋を覗いたり、店主達と軽口の応酬をしておまけを貰ったりして、満足げに袋を抱えて帰宅するために小路に入った時、ふと我に帰って「俺は主婦ならぬ主夫か」と自己嫌悪に陥り暫らくしゃがみ込む。
気を取り直して立ち上がると、溜息をついて歩き出す。

「お帰りなさーい、お仕事お疲れ様でした〜」
扉を開くと玄関の上がり口にイルカが笑顔全開でちょこんと立っていた。
直接訊いたわけではないのだが、どうも俺の帰宅時間頃になると玄関の前で待ち構えているらしい。
靴を脱いで上がると、ちょこちょこと付いて回るので、いつ踏み潰してもおかしくないくらいに危ない。
「あぶないでしょ」
「何がですか?」
注意したところで本人がその危険を判らなければ意味がない。
足元のイルカを摘み上げると、机の上に避難させた。
キョトンとしたイルカの顔が、俺の手によって一気に移動させられたのが面白かったのか、へらりと楽しげな笑みへと変わった。
「あの、あのっっ、あのですねっ」
ついでに机の上に今日買ってきたものを広げていると、その手元に向かってイルカが走ってきた。
「今日もきちんと留守番出来ましたよっ」
視線をモヤシからイルカへと移すと、何かを期待しているようにイルカの目がキラキラしている。
暫らく目と目を合わせて、イルカにはそんな気はなかっただろうが、攻防をしたが、その無邪気な瞳に負けを認めて溜息をつく。
「良く、出来ました」
「えへへ〜」
手の平全体では無理なので人差し指でイルカの頭を撫でると、それはもう嬉しそうな顔になった。
帰宅して自分の子供に絡まれたり強請られたりする父親とはこんな気分なんだろうかと、子供が居るわけでもなく、当然結婚もしていないのに父性愛に目覚めそうだと、俺は少しアンニュイな気持ちになった。

ところでイルカは風呂好きだ。
食事をすると食べ物の大きさと自身の大きさとがマッチしていないせいだろう、全身がベタベタになった。
タオルやティッシュで拭いて綺麗にするのにも限界がある。
おまけにカップラーメンの精などと大層な存在であるくせに、食事をするせいなのか小さいながらも新陳代謝があった。
摂取された水分と固形物は排出という形で現れるし、よだれをたらすように汗、涙、鼻水等分泌物も立派にあった。
要するにトイレに行くし、洗わないと服も体も臭くなるということだ。
トイレは最初犬猫用のものを準備しようと思ったのだが、片付ける手間が面倒臭いし、イルカは一人前に俺の前でトイレするのが恥ずかしいと訴えた為、人間サイズのトイレを使ってもらうことにした。
扉は自力で開けられないので少し隙間を開けておけば勝手入って使ってもらうことになった。
覗いた事がないのでどのように使っているのかは知らないが、個室にこもって暫らくすると水を流す音がするので、イルカ一人でも使えているらしい。
そしてイルカの風呂好きのことになるのだが、イルカが風呂に入りたいと訴えたのはカップラーメンを食べて腹痛で倒れた翌日の夜、イルカが俺の目の間に現れてから2日目のことだった。

何か作るのが面倒臭くて残飯処理で作った炒飯を食べた後、皿を片付ける俺の背中に向かってイルカは遠慮がちに声をかけた。
「あのう…」
「んー」
「その、あの、あのですね」
「?」
声をかけたものの中々用件を言わないイルカに、片づけを終えた俺は振り返って視線で話を促す。
少し困ったような表情になったイルカは、もじもじと服をいじりつつ俯きがちに小さく呟いた。
「俺、その、臭くありませんか?」
「…は?」
「やっぱり、その、1日風呂に入らないと臭うというか」
「…風呂…」
小人も風呂に入るんだと俺は新鮮な発見をしたように感じたが、感動はなかった。
トイレは一人で入れるが、風呂はどうだろうとふと悩む。
多分お湯と石鹸とタオルを用意すれば一人で風呂に入るだろう、しかし溺れたりしないだろうか。
悩んだのはほんの少しの間だったが、酷く心配そうな顔をしたイルカがこちらを見上げていた。
あーうー、と考え込んだ時の癖で頭をかきながら唸ると、イルカをひょいとつまみあげた。
「風呂ね、りょーかい、りょーかい」
歩きながらイルカを顔の間に持ってきてフンフンと匂いをかいでみるが、それほど臭くはなっていないが確かに体臭を感じた。
ぎゃーっと匂いをかがれることが嫌だったのかイルカが真っ赤になって叫んだが、風呂場に入って湯船の蓋に下ろすととたんに大人しくなった。
桶に湯を薄く張って蓋に置くと、イルカはキラキラと目を輝かせて桶を覗き込んだ。
匂いをかがれるのは恥ずかしがったくせに裸を見られるのは平気らしい、ちなみに雄ならぬ、立派な男だった。
ぱっぱと服を脱いだイルカは一応湯の温度を手で確かめるとピョンと飛んで桶に入った。
チャポンッと湯が跳ね、イルカは「ふわー、ふわー」と歓声なんだか良く判らない声を上げた。
「気持ちいい?」
「ふわーい」
尋ねるが、イルカの返事はやはり良く判らない、が気持ちは良いのだろう、顔がだらしなく崩れている。
俺は手を濡らすと石鹸を取りせっせと泡立てて、細かい泡をお湯に浮かんでいるイルカの頭に載せた。
「石鹸、良く洗いな」
「ふわーい」
頭の上にこんもりと乗った泡を手に取ったイルカは、そのままワシワシと頭を洗い、体もモシモシと洗い、全身泡だらけになり、そしてその泡は流れ落ちて桶の中は泡風呂状態になった。
イルカの脱ぎ捨てた服をなんとなく眺めた俺は、ふと疑問に思いそのまま口に出した。
「あのさ、アンタ着替えって持ってるの?」
「ふわ?」
「着替え、持ってるの?」
「ふわー…、忘れてきました〜」
何処にとは訊かなかった、訊けなかったとも言う。
しかしどこから取り出したのか、イルカが小さい棒を手に持って口の中をゴシゴシと洗っているのを見て堪らずに尋ねた。
「…あのさ、アンタ、何…してるの?」
「はひらきれふっ」
「…は…?」
ぺっぺっ。
「歯磨きですっっ」
口の中の泡を捨ててハキハキと答えるイルカに、一体どこに歯磨きセットを持っていたのか尋ねたりはしなかったが、代わりに桶から摘み上げると汚れた水を捨てて、シャワーで遠慮しないで思い切りゆすいだ。
ふぎゃーっとイルカが悲鳴を上げたが、そのうちにうひゃーっと歓声に変わったので気にしなかった。
この日は洗った服が乾くまで、イルカにはガーゼのハンカチで体を包んで服の代わりにさせた。

俺は手先がかなり器用だ。
翌日端切れと細い糸を手に入れると、せっせとイルカの着替えを夜鍋して作った。
「器用ですねぇ」
早速出来上がった服を手に取り妙に感心したように呟いたイルカは、へらりと嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
3着着替えを作り終え、同じ体勢を続けて悲鳴を上げる体を伸ばそうとふと視線を上げると、ずっと俺の手元を観察していたイルカが服を大事そうに抱えたまま机の上にひっくり返って眠っていた。
眠くなったのなら、無理して付き合うことはないのに。
摘み上げても起きないイルカを、初日からベッド代わりにしている空カップラーメンに入れると、俺は凝り固まった体をほぐすために腕を真上に伸ばしながら風呂へと向かった。


 *


イルカの衣食住、全ての世話をさせられいるという事実に俺が気付くのはそれから数日経ってからだ。
意識せずにまめまめしく世話をしている自分に、どうしたものかと頭を抱えた。
「そういや、最初の俺の願いをかなえるとか言ってたのってどーなったのよ」
これだけ世話をすれば、かなりの願いを叶えてもらえるのではないだろうか。
俺の疑問に対して、とっくの昔に眠りについてぐーぴーぷすー…とイビキと鼻息をつくイルカが答えることはなかった。





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