2. 日常はため息と共に
「いってらっしゃい!」
玄関の上がり口まで見送りに来た小人改め自称カップラーメンの精イルカは、元気良く声を出すとブンカブンカと右手を思い切り振った。
靴を履いて肩越しに振り返ると、必死な様子のイルカを見下ろしなんともいえない気持ちになった。
恐らくその気持ちは表情にも出ているであろう、俺を見ているイルカの顔が少し固い。
「…、…行って、きます」
俺が何とかそう言葉を発すると、息を止めていたのか頬を膨らまして顔を真っ赤にしていたイルカは嬉しそうに破顔した。
「はいっ!!いってらっしゃいですっっ!」
気をつけて〜、ご無事をお祈りいたしております〜等々、微妙に間延びした声に見送られて部屋から出る。
扉を閉め数歩進むと立ち止まり、俺は重く長い疲れきった溜息を一つついた。
ここ数日、俺はこんな朝を送っていた。
*
真夜中にイルカと奇妙な出会いをし、翌朝それが夢ではないと確認して脱力した俺は、グーグーと音を鳴らして空腹を訴える体を宥めるべく爆睡しているイルカを置いて食料調達をしに早朝から開いている弁当屋へ向かった。
朝食用の食料は軽食系しか売っておらず、サンドイッチを3種類とコーヒーを買い、もしかしたら空腹ゆえの白昼夢ではないかと淡い期待をして帰宅をしたが、カップの中からイルカの姿は消えず、がっくりと肩を落として椅子に座った。
少ない家財道具の1つであるテレビのスイッチを入れると、コーヒーの蓋を開けてミルクを落とし、サンドイッチをもそもそと食べ始めた。
すると匂いに釣られたのか、カップの中からウーンと唸り声が上がった。
「んー…、あ、おはようございます〜」
昨晩と同じく自力ではあるが苦労してカップから這い出たイルカは、ちょこちょこと歩いて俺の目の前にやってきた。
「朝食ですか?美味しそうですね〜」
昨晩賞味期限切れのカップラーメンを食べて腹痛を起こしていたくせに、薬を飲んで一晩寝たら復活したらしい、イルカは物欲しそうな顔をして俺の食べるサンドイッチを眺めた。
俺は無視を決め込み、目の前に佇むイルカから視線を逸らして内容が入ってこないテレビを見つめ続けた。
「…」
「…」
静まる部屋にテレビの音だけが響く、と、ぐー…と小さくだがはっきりと音が空腹を訴えた。
ちらりと視線を落とすと、イルカは気付いていないのか、ヨダレをたらー…と垂らして俺の口元を見ていた。
幼い頃家で飼っていた忍犬ではなくペット用の犬、大きくなっても子犬にしか見えないポメラニアンが、いつも人と同じ食べ物を欲しがり、俺が飯を食べていると横に座ってヨダレを垂らしてご飯くれくれアピールしていたのを懐かしく思い出した。
はぁー…と諦めの溜息をつくと、食べかけのサンドイッチを置いて立ち上がり、小皿とお猪口とティッシュを取って戻る。
ティッシュで机の上とイルカの顔に残ったヨダレをふき取ると、小皿にサンドイッチを一欠けちぎって置き、お猪口満杯にコーヒーを移した。
「食べれば」
キョトンとした顔をして俺の行動を見ていたイルカは、ぱあっと笑って頭を下げた。
「はいっ、頂きます!!ありがとうございますっっ」
もぐもぐむしゃむしゃごくごくぷはーっと勢い良く食べるイルカを見て、俺は何かに負けたと思い、もう一度溜息をついた。
カップラーメンを完食した通りに、イルカは手の平サイズの体に見合わずかなりの量のサンドイッチをお代わりと強請った。
体の3倍は食べただろうか、お腹をぷっくりと膨らませたイルカはテーブルにひっくり返って満足そうに息を吐いた。
俺は無作法にズルズルと音を立てて残ったコーヒーと啜ると、お腹をさするイルカを指で軽く突付いた。
「ちょっと、アンタ」
「アンタじゃありません、イルカです」
「あ、そ」
寝っ転がったまま反論するイルカに適当に相槌を打つと、再びイルカを指で突付いた。
「アンタ、俺の願い事をかなえてくれるって昨日言ってたでしょ?」
「イルカです、イルカ」
「はいはい、で、アンタ何が出来るの?」
「え?」
「昨日のラーメンと今日のサンドイッチ分は働いてもらわないとね」
俺の質問に固まったイルカは、見たところただの小さな生き物だ。
こんな小さな生き物じゃあテーブルの上に置いたままだと何処にも行けないだろう。
遠方の任務に連れて行き捨ててくる等と一瞬非情なことを考えたりもしたが、自分で拾ったわけではないものの一晩部屋に置き食事を与えたとなると、その生き物に対して責任が出来る、情も多少移る。
同じ言語を話すのかこちらにあわせているのか言葉は通じるが、何が出来て何が出来ないのかいまいち把握出来ない。
もしかしたら生まれたての子犬や子猫の様に下の世話まで面倒をみないといけないのだろうかと真剣に考えた。
硬直していたイルカは、突然何か思いついたようにぱっと笑った。
「あっ、家事!家事なら出来ます!!」
「は?」
止める間もなくイルカはテーブルから飛び降りた。
つぶれるかと思ったが想像以上に身が軽いらしい、音もなく床に着地すると、走るよりも距離が稼げるのだろう、ぴょんぴょんと子供の一歩と同じくらいの幅を飛びながら台所へと向かった。
最後にひょーいっと水場に飛び移ったイルカは、振り返ると得意げに胸を張って笑った。
「洗い物しますっ、お皿持ってきてください」
ノミみたい、とイルカの移動を見ての感想を心中で呟いた俺は、皿を下げることが出来ない中途半端な皿洗いという家事の始まりに先が思いやられて溜息をついた。
想像通り、イルカの家事は中途半端以下の余計な手間が増えるものであった。
俺の下げた皿を洗おうとして水の張ったボールに落ちて溺れかけ、では次に掃除をと水場から降りたものの広い部屋を掃除できる掃除機や箒を使えるわけもなく風を起こす術も知らない、次に洗濯機へと走ったが洗濯機で溺れたら洒落にならないと止め、風呂の掃除も同じ理由で却下、料理は更に危険との判断で却下。
他にも思いついたままにイルカは行動したが、ことごとく失敗に終わった。
窓際でぷるぷると肩といわず全身を震わせるイルカに、俺は後始末を全て済ませてから近付いた。
「ちょっと、泣いてんの?」
「…な、泣いてなんて…いばぜんっっ」
溜息混じりに声をかけると、確かに泣いていなかったイルカは、その代わりずびーっと鼻を啜った。
しょうがないなあと、カカシは再びティッシュを取ると背を向けたままのイルカを突付いた。
「ほら、こっち向いて」
しぶしぶと振り返ったイルカのぐちゃぐちゃになった顔を拭いて「はい、ちーん」と鼻をかませた。
汚れたティッシュを捨ててもう一枚綺麗なのを渡すと、ぐずぐずと鼻を鳴らすイルカに、俺は今日何度目になるのか分からない溜息をついた。
「じゃあ俺の願いを言うよ」
「…ばい」
「とりあえず泣くな」
「…そんなの、願いじゃ、あり、ませんっっ」
頬も目も瞼も、顔中真っ赤にしたイルカは、怒ったように頬を膨らまして恨みがましく睨みつけてくる。
俺はうーんと唸りながらこの小さい生き物に出来そうな事を考えたが、特に何も思いつかなかった。
では反対の発想で何もしないでいてもらおう。
「じゃあ、留守番は出来る?」
願いというよりも子供のお使いとかの類になっているが、それには気付かなかったのか気にしていないのか、イルカはキョトンとした顔をしたかと思ったらヘラッと笑った。
「出来ますっ、留守番!!」
泣いたカラスがもう笑ったと、俺は安堵の溜息を付いた。
暫らく高ランクの任務は回ってこないので部屋には帰ってこれるが、大掛かりな任務が待っていて、打ち合わせで毎日出掛けなければならない。
こんな小動物を置いていくのは心苦しいが、数時間置きにミルクを与えなければならない赤子ではない。
心を鬼にして、と思い、すっかり世話をする気になっている自分に気付く。
ところでお昼ご飯はどうすればいいんですか?とイルカに暢気に尋ねられるまで、俺は頭を抱えたままであった。
当然この日は打ち合わせに遅刻したが、イルカの昼飯用に握り飯をまめまめしく作ってから出かけた。
己の動物好きと世話好きのなせる業に、暫らく無駄に落ち込んだ。
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