4. 終わりは夜明けと共に
夏の朝は早い。
まだ活動を開始するには早すぎる時間ではあるが、外はすっかり明るくなった。
体は睡眠を欲しているのだが、明るい光りが部屋に差し込み何時なのだろうと目を開ける。
すると俺の顔の真横でご機嫌で寝ていたはずの、イルカの姿がない。
踏み潰したかと青くなり一瞬で覚醒し体を起こすが、下敷きにはしておらず安堵の溜息を付く。
「イルカ?」
名前を呼びつつ布団を漁るが、何故かミニマムな姿が現れない。
ベッドの中、掛け布団をどかして全て見回し、ベッドの周りに落ちていないか隅に頭を突っ込みんだが、いない。
「あれ? イルカ?」
ベッドから降りると部屋中見て回り、扉という扉を開けて名前を呼ぶが、姿はないし返事もない。
最後には忍犬を呼出し、然程広くもない部屋に8匹と1人全員で捜したが、とうとうイルカの姿を見付ける事が出来なかった。
「…イル…カ?」
昨日までの事がまるで夢であったかのように、イルカは忽然と姿を消した。
*
控室で何をするでなくボンヤリと座っていると、入り口の扉が開いて大柄な男が入って来るのが視界の端に写った。
そのまま俺の隣にやってきたアスマは、いつものように煙草を咥えて声をかけてきた。
「よう、カカシ、どうしたんだお前?」
どうしたもこうしたもない。
あーともうーとも言えない微妙な発音をしながら面白そうにこちらを見るアスマに顔を向けると長い溜息を付いた。
「アスマさあ、何か買ったらそれに小人が付いてたこと、ない?」
「は?」
何言ってんだこいつ、と言わんばかりに目を向いたアスマに、俺は再び溜息と付くと首を振った。
「…何でもない」
イルカの事は誰にも話していないし、当然イルカの姿を誰かに見せたこともない。
そんな状態でカップラーメンの精だの小人だのと説明しても、幻覚を見たか、頭がおかしいと思われるのが関の山だ。
何の進展もない状況に、俺は溜息を付くと俯いて頭を抱えた。
イルカが姿を消してから何事もなく数日が経過していた。
当初は混乱していて気付くのがかなり遅れたが、イルカが姿を消しと時同時にイルカが憑いていたというべきベッド代わりに使っていた空のカップラーメンもなくなっていた。
その他、イルカが自分の持ち物として持ち込んだ歯磨きセットや当初着ていた服等々も消えていて、残っていたのは俺が夜鍋して作ったイルカ用の服や箸等の日用品だけ。
所謂イルカの元いたどこにあるのか知り得ないアッチの世界から持ち込んだ物が全て消えて、俺が用意したコッチの世界の物だけが置き去りになっていた。
本当に幻術にでもかかっていたのか、もう俺自身本当にイルカが存在していたのか確信が持てなくなってしまった。
ごそごそと懐に手を突っ込み、馬鹿みたいに大切にしている紙を取り出し、じっと見る。
「何だそれ?」
「短冊」
煙草片手に俺の手元を覗き込んだアスマに、俺は見れば判るだろうと端的に答えた。
七夕の翌朝、イルカは消えた。
最初は何処かに落ちたか潜ってはまったのかと思って、名前を呼びつつ手当たり次第物をどけて探した。
ベッドの上の掛け布団をどけて、枕、シーツ、その下のマットを持ち上げると、そのベッド自体もずらして下を覗き込んだ。
トイレも、風呂も、台所の冷蔵庫も、扉と名の付くもの全てを開けて中を調べた。
部屋の中を一通り探し尽くしたところで、忍犬を8匹全部呼び出した。
俺の忍犬はイルカと一緒に留守番をしたことがあるので、イルカの姿も匂いも声も分かっている。
部屋の中はイルカの匂いでいっぱいであったが、忍犬達も部屋からイルカを探し出すことは出来なかった。
まさか部屋から出てしまったのでは、と窓や玄関から出てみたが匂いは残っておらず。
突然出現した時と同じように、イルカはその存在を消滅させた。
馬鹿みたいに放心していたのは数分で、我に返るとそろそろ自宅を出ないといけない時間になっていた。
何時の間にか俺を囲んでいた忍犬達は妙に真剣な、心配そうな視線を向けていた。
主の俺がしっかりしないでどうすると苦笑いすると、パックン一匹を念のため部屋に残した。
「気をつけての、主殿」
「うん、何かあったら知らせて、留守番宜しくね」
いつもと違う目に見送られて、俺は部屋を出た。
その日の任務は簡単なものであったが俺は妙に手間取り、里に帰って来る時にはとっぷりと日が暮れてしまった。
報告を済ませた後アカデミーを出て商店街の横を通りかると、七夕飾り片付けらていた。
一箇所に集めて燃やすらしい、結構手間隙掛けて飾りをしていたのに直ぐに片付けられるのかと立ち止まって見ていると、子供達の願いが書かれた短冊を吊った竹が運ばれてきた。
あれには、イルカが書いた短冊が。
そう思うと、俺は慌ててその竹に近付いた。
「ちょっと…すいませんっ」
「んん? おー、アンタか」
先日出会った店主が振り返り、俺に気付くと笑った。
「これ、燃やすんですか?」
「そうさ、まあ竹を持ってきてくれたアンタにしてみれば勿体無いことかもしれないが、何時までも飾っておくわけにもいかないしね」
「あの、燃やすの少し待って貰えませんか?」
「ん? まあいいが、どうしたね」
「ちょっと…」
俺は言葉を濁すと、横たえられた竹の場所の当たりをつけて、目当てのものを取り戻した。
不思議そうな店主に礼を言うと、俺は踵を返して自宅へと向かった。
暗く静まり返った部屋の前で俺は少し躊躇うと、ノブに手を掛けて扉を開けた。
ほんの少し期待していた昨日までの明るい出迎えの声はなく、呆然と立ち尽くしていると部屋の奥から留守番していたパックンが顔を出した。
「帰ったか」
「…イルカは?」
俺の質問に、パックンは首を振った。
そう、と溜息をつくと短冊を懐から取り出した。
それには、あの晩イルカが書いた願い事が下手くそな文字で綴られていた。
ずっと一緒にいられますように、と。
犬達もイルカの姿や匂いを覚えている。
そしてこの短冊もある。
確かにイルカが存在していたものがここにあるというのに。
イルカが使えるような小さなペンは流石に用意出来ず、人用のペンはイルカと同じ位の長さだった。
それでもイルカは体全体で支えるように持つと、ヘロヘロと歪んだ文字を書いた。
歪んでいても読める文字を書けるのは立派なもんだ。
「上手、上手」
「へへっ」
俺が褒めるとイルカは両手でペンを抱えたまま、にかっと嬉しそうに笑った。
七夕の日、短冊を竹に結び付けた帰り、星の良く見える暗い道へと遠回りするようにして一緒に空を眺めた。
夏の星はどの季節よりも数が多くて降るように輝き、頭上を見上げながら共にはしゃいだ。
昼間の暑さが嘘の様に夜は涼しい風が吹く、自宅に帰るとすっかり冷えた体を共に風呂で温めると、ベッドの枕の横にタオルでイルカの寝床を作った。
その様子を写真立ての横で期待で目をキラキラさせてながら大人しく待っていたイルカは、電気を消してベッドに潜り込んだ俺がおいでと呼ぶとポスッと軽い音を立てて降ってきた。
「おやすみなさい、カカシさん」
一度俺の鼻にくっついたイルカは、準備した寝床にもぞもぞともぐりこんで俺の方を向いてニコニコと笑った。
「おやすみ、イルカ」
俺はそう言い目を瞑ると、ものの1分もしないで隣からくーぷーぷすーと寝息が立ち、何となく眠くならなかった俺は暫らくヨダレを垂らして寝るイルカを眺めていた。
相手を幸せにするのが仕事と言っていたイルカ。
確かに幸せを感じていたが、翌朝消えてしまうのならあのまま明るくなるまで起きていれば良かった。
再び懐に短冊を戻すと、イルカがやってきた時とは違う意味の重い溜息をついた。
見掛けによらず心配性なアスマに飲みに行くかと誘われたが、暫らく悩んで断った。
「何があったか知らねえが、あんまり落ち込むんじゃねえよ、らしくねぇ」
「んー」
「まったく…」
俺につられたのか、アスマは煙草の煙を溜息と共に吐き出すのを見て、少し笑った。
帰宅して部屋の扉を開ける時、もしかしたら何事もなくイルカが迎えてくれるのではないかと、いつも緊張した。
そして暗く静かな誰もいない部屋を見て、落胆して溜息をつく。
自炊するために買い物はするものの、一人で食事をするのがつまらなくて家事はイルカが来る前にすっかりと戻ってサボリがちになってしまっている。
今日もこのまま一人帰宅して無駄に落ち込むのも嫌なものだ。
つまらなそうに煙草を吸うアスマに愚痴でも聞いてもらおうか。
「アスマ、やっぱり俺飲み行く」
「そうか?」
「うん、悪いね」
「悪ぃと思うなら、そんな湿気た面してんじゃねぇよ」
アスマに背中をどつかれて、俺は苦笑いした。
アスマとの飲みがきっかけとなったのか、それからイルカに出会う以前の生活、元の生活へと戻った。
イルカを思い起こしてしまう短冊を始めとした物は捨てるのには忍びなく、かといって目に付く場所に置いておくと飽きることなく眺めて溜息をついてしまうので、纏めて箱に入れて机の中に仕舞った。
毎日任務に行き、任務が終わると控え室に行き、時々仲間と飲みに行く。
たまに休みを貰うと、忍犬達と山に散歩に行くか、新しい本を手に入れて部屋で読んでいる。
そんなことを繰り返して一月が経過した。
8月初めは特に暑さが厳しい。
いつぞやのように真夜中に任務を終えて帰ってきた俺は激しく腹を空かせていた。
真夏だろうが何だろうが、当然店は閉まっている。
自宅の冷蔵庫の中は開けて覗くまでもなく、水と梅シソドレッシングとうがい薬しか入っていない。
帰宅してから買出しに出かけるのを面倒臭がった俺は、アカデミーを出た足で食料を調達しに向かった。
生温い空気の里内を背を丸めてトボトボと歩いていると、夜中でも煌々と光っているコンビニが目に入った。
そういえば前に閉店セールをしていたが、何時の間にか新装開店していたらしい。
コンビニの棚は当然沢山の物が詰まっていて、夜中であるが人が2、3人いて品を物色していたり、雑誌を読んでいたりした。
俺は外とは違って冷たく冷え切ったコンビニに入ると、何となくインスタント物のある棚へと歩いていく。
棚の隅から隅まで目を通し、例の印象的のカップラーメンの容器はないなと思い溜息をつく。
暗い気分になりいかんいかんと首を振ると、目の前に置かれた物を適当に手に取るとレジに向かった。
ガサガサとカップラーメンの入った袋の音を鳴らして帰宅すると、通路に何か大きなものが転がっていた。
ここの通路沿いは上忍の部屋が並んでいるせいもあるのか、酔っ払って帰宅し損ねた奴等がよく行き倒れている。
今回もそれだろうかと近付くと、それは家出を彷彿させる風呂敷包みを背負い丁度俺の部屋の入り口を塞ぐ形で座り込んでいた。
不気味というよりも間抜けなその姿に、俺は眉を下げた。
俺が目の前に立っているというのに気付くことなく熟睡しているのだろう、時折フガフガと鼻が鳴る。
どうやら酔っ払いではないらしい、特有の酒臭さがないがこれをどかさない事には部屋に入れないらしい、俺は仕方なく眠る人物の肩を揺すった。
「ちょっと」
すると肩を揺すられた人はばったりと横に倒れた。
「ちょ…ちょっと、起きなって」
慌ててしゃがみ込んで顔を覗き込むと、ペチペチと頬を叩いた。
本当に単に寝ていただけなのだろう、それは唸り声を上げると目を擦りながら眠たそうに俺を見上げた。
「…あ」
別に何処にでも居そうな平凡な顔立ちのなのだが、目を擦る手の下、頬と鼻筋を横一文字に通った傷は今はいなくなった誰かを彷彿させる。
そう思うと、肌の色も、目の色も、髪の色も、そして通路で鼻を鳴らして熟睡している様な鈍臭さも、何もかもが似ている。
まさかと思い俺が動けないでいると、大きく欠伸をしたそれはにっこりと笑った。
「遅かったですね、お仕事ですか? お疲れ様でした」
その笑顔と声は。
俺は自分の意思と反して震える手をそれの肩に置いて、伺うように口を開いた。
「…イル…カ…?」
「はい?」
擦れた声しか出なかった俺の様子がおかしいと思ったのか、それは不思議そうに首を傾げると「そうだ」と笑った。
「お帰りなさい、カカシさん」
はっと詰めていた息を吐き出すと嬉しいのか詰りたいのか複雑な気持ちになり、その感情のままに思い切りそれを抱きしめた。
「ただいま」
首筋に鼻を押し付けて匂いを嗅ぐと、すっかり部屋から消えてしまった、懐かしく感じる匂いがそこにあった。
馬鹿みたいに涙腺が緩んだが涙になって落ちるほどでもなく、俺は顔を上げると笑うイルカに笑い返した。
「それとお帰り、イルカ」
「はい、ただいまです」
その後嬉しそうに笑うイルカに抱きしめついでに口付けたら、息づきの仕方を知らなかったイルカが暫らくすると顔を真っ赤にしてぶっ倒れ、うわーっと俺がイルカの名前を叫ぶ声が寝静まった辺りに響き渡った。
どうやら人間サイズに大きくなってもイルカはイルカのままらしい。
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