「お粗末さまでした」
カップの残骸やおにぎりが乗っていた皿がすっと下げられる。あ、と思った時には、風呂を勧められた。
「一番風呂じゃなくて申し訳ないですが」
イルカ先生は俺が訪ねてくる前に既に入ってしまったのだという。
「いえ、そんな。入れるだけでもありがたいです」
親切にしてもらって文句を言う筋合いなんてない。
凍死しかけた身としては、風呂なんて夢みたいだ。そう言うと、申し訳なさそうだった表情がほっと緩んだ。
それを見て、俺も言ってよかったと思った。申し訳ないと思ったままじゃ悪いから。
でも、普段は他人が何を考えているか気にしたことなんてないのに、どうして今日はこう気になるんだろう。なんだか調子が狂う。
首を傾げながら、風呂場へと向かった。
小さな浴槽だったけれど、使い込んである跡が感じられるし、暖まる分にはまったく問題なかった。
天井から落ちる雫を眺めながら、番組のために来て酷い目にも遭ったけど、でも来てよかったかもと少し思った。
風呂から上がると、着替えが用意してある。
おそらく学校で着ていると思われるジャージ。ブランドものとかじゃない安くてダサいアレ。これを着て外を歩くのはちょっと恥ずかしい気がしたが、寝間着代わりだから別にどうということはない。
でも、あの先生がこれを着て出歩いても、似合ってそうだからいいかなと思った。きっと村の人も当然のように受け入れるだろう。
「いいお湯でした」
髪の毛をタオルで拭きながら礼を言った。
こたつに座っていたイルカ先生は、はっとこちらを見上げる。
「すいませんけど、明日まで仕上げないといけないので……」
そう言って手元の紙に目を落とした。また眉間に皺が寄ってる。
きっと持ち帰りの仕事なのだ。
「ああ、俺のことは気にしないで続けてください。暇つぶし用の本も持ってきたし」
荷物の中から本を取り出して見せると、ほっとしたように赤ペンを手にこたつの上に集中し出した。
もしかすると、テストの採点?
きゅっきゅっとリズミカルに丸やバッテンがつけられていく。たまに手が止まって考え込んだ後には、三角がつく。
本を読もうかと思っていたけど、気になって仕方がない。読んでいるふりをしながら眺めることにした。
しばらく観察していたのだが、どうしても気になることがあった。少しだけ邪魔するけど、許してね。
「それって何ですか」
ただの丸じゃない。
ぐるぐるの丸の周りに花びらのような模様。初めて見る形だった。
「知りませんか? 花丸。満点を取った子に書いてあげるんです。『よくできました』の印ですよ」
そんなの知らなかった。満点なんてざらだったけど、花丸をもらったことなんて一度もなかった。
もう一度よく見ようと覗き込んだ答案の名前欄には、春野サクラと書いてあった。今日のあの子だ。
「賢い子なんですね」
「ええ。クラスで一番ですよ」
自分の生徒が褒められたのが嬉しかったのか、花がほころぶように綺麗に笑った。
きっと自慢なんだろう。なんかいいなぁ、羨ましい。
「いいなぁ……」
「え?」
言うつもりなんてさらさらなかったが、無意識に口に出していたらしい。
不思議そうに俺を見つめるイルカ先生に、ちょっと焦った。
「えーっと、あのー、俺は小さい頃からモデルとかやってて、学校は私立で出席日数さえあれば進学できる芸能人御用達の学校だったから。あんまり思い出とかないんですよね」
「そうなんですか……」
「だから楽しそうだなぁって思って」
そう、ナルトたちのクラスは楽しそうだ。休み時間も授業時間も。
「学校は楽しいところですよ。そういう思い出がないなんて、寂しいですね」
イルカ先生は本気で案じてくれた。
学校は遅刻早退あたりまえ、授業もほとんど聞いてなかったからあまり感慨もない。でも、イルカ先生みたいな先生だったらまた話は違ったかもしれない。学校を好きになっていたかもしれない。そう思うと残念だ。
「これ、名前書いてください」
イルカ先生に一枚の白い紙を手渡された。
なんだろうと思ったが、なんとなく逆らえなくて名前を書いた。
するとイルカ先生がそれに何かを書き加え、俺に戻した。
「はい」
俺が書いた名前の上に、赤ペンがでっかい花丸を描いていた。
「こんなのしかあげられませんが」
とイルカ先生は言う。
でも充分だった。充分嬉しかった。
「あははは。イルカ先生ってすごいや」
「そうですか?」
きょとんと返されて、わぁこの人天然だ、すごすぎると思った。
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2010.05.29 |