髭が帰るために立ち上がった瞬間。
「あれ? もう帰られるんですか」
にこにこと笑顔のイルカ先生が、お盆を抱えてやってきた。
元から愛想が良いのだろうけど、その笑顔が他の人に向けられていると思うとなんだか面白くない。
それにも増して面白くないのが、髭だ。
イルカ先生を興味津々でじっと見つめている。こいつ、本気でイルカ先生に興味があるんじゃなかろうな。
「じろじろ見るなよ。失礼だろ」
本当は減るから見るな、と言いたいところだけど。
「あー、そうだな」
あっさり引いたので拍子抜けしたが、油断は禁物だ。
「アスマはもう帰るので」
宣言しておけばもう帰らざるを得ない。
髭も察したのか頷いた。
「お邪魔しました」
「あ、お茶だけでも!」
髭が立ち去ろうとするのをイルカ先生が呼び止めた。
別に止めなくてもいいのになぁ。
髭はじゃあと言って、茶碗を掴むと本当に茶だけ飲んでお盆に返した。
茶菓子を無視して帰ろうとしたら、イルカ先生が素早く懐紙に包んで髭に手渡す。そういうのがもてなす側のルールというものらしい。俺が知らないことばかりだ。 奴も甘い物はあまり得意じゃないから、避けようとしていたのが失敗に終わり、ざまーみろだ。
「何もないところですけど、またいつでもどうぞ」
と、イルカ先生が言う。
社交辞令だとしても相手は勘違いしてまた来ちゃうかもしれないのに。イルカ先生ってば!
でもそういうところが、らしいと言えばらしいかも。
多少納得して髭を見送った。
「ところで、カカシさん。他の荷物はいつ届くんですか?」
こんな狭いところに入りきるかなぁと、イルカ先生は部屋を見渡している。
どうやら後から荷物が届くと思っていたらしい。荷物を置くスペースを検討してくれている。
心配してもらって悪いけれど、大丈夫。
「他に荷物はなーいよ。これだけ」
引っ越し荷物はトランク一つに収まった。わずかな着替えと本と写真立て、それと観葉植物のウッキーくん。身軽なもんだ。
「ええっ、本当にこれだけ?」
「だって仕事場に行けば衣装は用意してあるから必要ないし。物はあんまり買わない主義だから」
「すごく少ない!」
イルカ先生が驚きの声を上げる。
よく私物が少なすぎると言われるが、今回の引っ越しには好都合だった。
だいたい私物がたくさんあったとしてもこの家では入りきらない。そうなると一緒に住む障害になるじゃないか。
それくらいなら必要最小限なものだけでいいのだ。
イルカ先生はしきりに感心していた。どうしたらこれだけで済むのか分からないらしい。イルカ先生は捨てられない物が多くて苦労するのだと言う。みんなで撮った写真とか、卒業する生徒から貰ったメッセージカードとか。
まあ、そういうのにこだわる気持ちは仕方がないことなのかもしれない。
でもこの家だと荷物に圧迫されそうだな、とちょっと思った。
「それじゃあこれは、一番日当たりの良い場所に置きましょうね」
イルカ先生が南側の窓際にウッキーくんを置く。 そういう心配りがさすがだ。きっとウッキーくんも喜んでくれるだろう。
イルカ先生が動いていく姿を目で追っていくと、ふと違和感があった。この前までと部屋の様子が違って見える。
「あれ? もしかして……」
俺の視線に気づいて、イルカ先生の表情がぱあっと明るくなった。
「そうなんです。思いきってテレビを買いました!」
「へぇ」
「絶対買った方がいいってみんなが言うので。いつもは見ないけど……でもこれからはカカシさんもいるし、あった方がいいかなって」
イルカ先生が鼻の頭をかりかりと掻く。
「俺のために?」
「こんな田舎だし、テレビでもないとつまらないでしょう?」
いや、全然。
テレビなんて観なくてもイルカ先生さえ見つめていれば生きていけるし。
「お仕事チェックするのにも必要だろうって同僚が言ってたから」
だから無理してくれたのかな。
負担になったのなら申し訳ない。でも環境を整えようとしてくれた気遣いは嬉しかった。
「ありがとう、嬉しいな」
正直な気持ちだ。
自分の出演したものをチェックしたことは過去に一度もないが、イルカ先生の好意はありがたく受け取っておこうと思った。
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