「あ!」
ウッキーくんに水やりをしていたイルカ先生が、突然と叫んだ。
「荷物がこれだけってことは、茶碗も湯飲みもないってことですよね?」
「あー」
そういえば全部置いてきたな。
持ってくること自体思い浮かばなかった。
「じゃあ、新しいのを用意しなきゃですね」
「え。いいですよ。ここにだって余ってるのありますよね、それで」
この前使ったやつとか。
「ちゃんと専用のじゃないと。ね」
よくわからなかったが、イルカ先生がそう言うのでそういうもんかと思うことにする。ここではそういうルールなのだ。郷に入っては郷に従えだ。
「今はとりあえずこれを使ってもらって、今度俺が用意しておきますね」
「イルカ先生にお願いするのは悪いですよ。俺が買ってきますから」
と言っても、髭に買ってこさせるだけだが。
「買うんじゃなくて作るんです」
「は?」
「ほら。授業で陶芸をしたりするから、けっこう俺も得意なんですよ」
今愛用している茶碗もイルカ先生作なのだと言う。
それで、わざわざ土をこねて作ってくれるらしい。
「ありがとう、イルカ先生。すごく嬉しい。」
「変なのが出来上がっても文句言いっこなしですよ?」
そんなことを言うはずがない。どんないびつな形でも嬉しいに決まっている。
「そうだ、これ」
目の前に差し出されたのは古ぼけた色の小さな塊。手のひらにころんと転がった。
一瞬それが何か分からなくて戸惑う。
「この家の鍵です。ないと不便でしょう?」
イルカ先生に言われて、はっとした。
合い鍵!
これは合い鍵ってやつだ。
イルカ先生はすごい。
碌に知らなかった人間を受け入れて、居場所を作ってくれる。本気で。
思いきってここに来て良かった。諦めて東京へ帰ったままにしてしまわなくて良かった。そう思う。
こうして俺の田舎生活は始まったのだった。
朝は二人一緒に家を出る。
毎日学校へ行くイルカ先生と共に出れば遅刻することもなく、スケジュール管理にうるさい髭が泣いて喜ぶことになりそうだ。
「カカシさん、いってらっしゃい。早く帰ってきてくださいね」
別れ際にイルカ先生が言う。
まるで新婚さんみたいじゃないか。もう俺は張り切っちゃうね!
今、俺の仕事は新ドラマの撮影が主だ。
なので終わりの時間がけっこう曖昧で困る。が、曖昧が故に何とかなるという部分もあるのだ。
「早く帰りたいからリハなしぶっつけ本番で」
プロデューサーに言ったら、白目を剥いていた。
だってイルカ先生が早く帰ってきてねって言うから! 守らなきゃいかんでしょ!
「で、でも、台詞とか立ち位置とかを……」
「台詞なんて一回読めば覚えるもんでしょ? 立ち位置だってプロなんだから普通分かるでしょ? 何が問題なの」
今までもリハーサルとかに何の意味があるか分からなかったけど、仕事上の付き合いと思って我慢してきた。でも早く帰りたい理由があるんだから、今度はそっちが俺の都合に付き合ってくれてもいいじゃないか。
無言の圧力をかけると、こくこくと頷いた。
よし。
というわけで、うまく時間を巻きまくり、早く終わることができるようになった。
「おつかれさまでしたー」
うきうきと挨拶をすると、
「お、おつかれさ…までした……」
なんだか疲れたような声が次々と返ってきた。
が、気にしている場合じゃない。早く帰ろう。
「アスマもおつかれー」
脇の方で待っていた髭に声をかけると、
「お前、鬼だな」
と言われた。
なんだ失礼な奴だな。
みんなやる気になれば出来たじゃないか。緊張感が足りないだけでしょ。
「あれ。他の連中はまだ帰らないの?」
俺と髭以外スタジオから誰も出てこない。帰る気配がなかった。
「なんか明日のリハを今から自主的にやるんだと」
「へぇ」
俺抜きでやっておいてもらったら、明日もサクサク進むからいいな。
そう言うと、髭が
「ほっんとお前は鬼だな」
と言いやがった。
本当に失礼な奴だ。
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