「やー!!」
耳に届いたその声は。
「イルカ!」
夕闇が迫る中、ミズキがイルカを押し倒している光景を前にして、頭に血が上った。
必死に抵抗しているイルカの姿を見て、まともに何かを考えられなくなった。
すぐにミズキの腹に蹴りを入れて引き剥がした。
「よくも騙してくれたな、この野郎」
「ふん。簡単に騙される方が悪い」
いけしゃあしゃあと言いやがる。
図星ということもあって手加減せずにもう一蹴り入れてやれば、気絶してしまった。
ざまぁみろ。
武道は一通り修めているから、素人なんて敵うはずがない。
素人に暴力を振るっていいかというのはまた別の問題だが。
己のしたことに比べたら、これくらいの報復は当然だろう?
「イルカ」
地べたに座り込んで震えているイルカを、驚かさないようにそっと声をかける。
「カ・カシ…?」
眼にはじわりと涙を滲ませて、俺の胸に飛び込んできた。
驚きのあまり、不覚にも尻餅をついて抱きしめる形になった。
イルカの心臓の鼓動が伝わってきて、こっちの心臓までばくばくと音をたて始める。
「大丈夫。もう怖くないから」
大丈夫、大丈夫と繰り返し言い聞かせ続けると、少しずつ心拍が落ち着いてくるのがわかった。
腕の中にある温もりに眩暈がしそうだった。
ゆっくりと背中を撫でていると、ふいに顔をあげて心配そうに俺の様子を窺ってきた。
「どうしたの?」
「カ・カシ。痛いの、治った?」
と聞いてくる。
自分が怖い目にあったのに、そんな心配をして。
「治ったよ」
笑顔でそう答える。
たしかに痛みはなくなったから、心からそう言えた。
安堵の笑みを浮かべるイルカに、ふと聞きたいことを思い出した。
「どうして、ミズキに言葉がわかるか聞いたの?」
「だって、カ・カシ優しいから本当に通じているのかわからない。ミズキにわかれば、カ・カシにもわかると思って」
つまりミズキはただの判定に使われただけだったのだ。
あの笑顔は俺のためのものだったと思っていいの?
自分の早鐘のような鼓動の音が聞こえる。
「イルカ。好きだよ」
するりと口をついて出た言葉は、自分でも狼狽えてしまった。
と同時に、黒い瞳でじっと見つめてくるイルカに、今の言葉は通じたのだろうかと不安になった。
ああ、こんなことなら『愛してる』ぐらいの島の言葉を覚えておけばよかった。
日常生活に使う言葉は覚えたけれど、そういう類はまったく知らない。
「好き」
「え?」
「イルカもカ・カシが好き」
恥ずかしそうに返された答えは、望んでいたものだったけれど。
すぐには信じがたくて恐る恐る聞き返す。
「本当に?」
こくりと頷かれても、まだ駄目だった。
言葉をよく知らないから伝わっていないのかもしれないし。
意味が違っていたら困る。
これが勘違いだったら、この浮遊感のうちに崖から突き落とされてしまいそうだった。
「『好き』ってこういうことだよ」
軽く触れるようなキス。
たぶんこれなら万国共通の意味のはず。
祈るように見つめれば、頬を染めながら俺の唇に口づけてきた。
「カ・カシ、好き」
そんな単純な言葉に、こんなにも胸が熱くなるなんて。
涙すら感じた。
あのはにかんだ笑顔が、今自分の腕の中にあるという奇跡のような幸福。
イルカの顔を両手で包んで覗き込めば、瞳には満天の星が映っていて、まるで星が降っているように見えた。


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2002.08.17


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