【君よ知るや南の島7】


朝、二人並んで船着き場に向かう。
「イルカ」
名前を呼ぶと、ずっと俯いていた顔を上げる。
イルカの眼は真っ赤に充血し、腫れ上がっていた。
「お願いがあるんだ」
「お願い?」
「今から『いってらっしゃい』って言って。俺が戻ってきたら『お帰りなさい』って言って」
俺を見つめる瞳は不安げに瞬き、それでもかすかに微笑んだ気がした。
「いってらっしゃい」
「いってきます。必ずイルカのところに帰ってくるからね。約束だよ」
こくんと頷いて、しばしの別れの口づけを交わした。
出航した船の中では、イルカの姿が豆粒ぐらい小さくなっても、島が遠く見えなくなっても、ずっとその方角を見つめ続けた。
海の青を見てはイルカを思い出し、後ろ髪を引かれる想いで島を後にした。
アスマは意外にもあれ以来からかうことはなかった。
身体の一部が引き裂かれるような痛みはずっと消えず、いつまでも静かな海を見つめ続けていた。


+++

島を出てからは、何も楽しいことなどありはしなかった。
街のネオンもただ島の満天の星を思い浮かべることにしか役立たなかった。
雑踏の雑音も波の音を思い出すだけ。
島に着いたばかりの頃は、波がうるさくて眠れなかったはずなのに。
今はもうこんな息苦しいところに居たくない。
思い出すのはあの奇跡のような海とイルカだけ。
いつも笑っていたのに、思い浮かべるのは最後に見た泣き腫らした眼の悲しげな顔ばかりだった。
それが胸をきつく締めつけた。
「カ・カシ」と。
ただそう呼ばれたかった。


会社の連中は腫れ物を触るように対応し、右往左往する。
今の俺の心を占めるのはイルカだけ。
後継者とか、財産分与とか、どうでもいいのに。
どうして人はそれをわかってくれないのだろう。
うんざりしていたが、ようやく会長に会えることになった。
邸宅に呼び出すところが気に入らないが、この際贅沢は言っていられなかった。
はやく話をつけて島に帰りたかったから。
応接室に通され、待たされた。
扉を開けて入ってきた小柄な老人を見て、「そういえば俺の母は変わったものが好きだったなぁ」と感慨深く思い出した。
「カカシか」
「はぁ」
「ずっと会いに行けなくてすまなかったな」
「いや、別にいいけど。それよりも跡継ぎに指名したって何?迷惑なんだよね」
不快感をあらわにして対応する。
口調もくだけていてむしろ無礼なくらいだ。
これってもしかして子供としての甘えなのかもしれない、と思う。
どんな態度でも可愛がって欲しいという気持ちの裏返しなのかも。
昔はかなり恨んでいたのに、そんな風に思ったりするのはイルカに出会ったせいなのだろう。
「今までの償いのつもりだったが。そうか、迷惑だったか」
「会社も辞めようと思ってるんだ」
そう伝えると、驚き、そして落胆したようだった。
「何か欲しいものはないか」
「俺の欲しいものは、アンタに用意できるもんじゃないよ」
欲しいものは、イルカだけだから。
はにかんだ笑顔をむけるイルカだけ。
お金でも買えない大切な大切な宝物。
「そうか……もう儂も長くないのでな、何か残してやりたかったんだが」
「……いや、待てよ。あるよ、ある。欲しいもの」


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