「あっ、立ちくらみですか? ソファーに座って休んでください!」
よかった、気づいてない。鈍い人でホントよかったー。
ソファーなんかに座って前を曝せるものか。
「しばらくこのままでいれば大丈夫ですから」
苦しい言い訳をして、心頭滅却する時間を稼ぐ。
なんとか収まってきた矢先に、声がかかった。
「何やっとるか」
「あ、社長」
じいさん、もう来やがったのか。もう少し遅れてくればいいものを。
もちろん不満は心の奥に閉じこめて、にこやかに営業スマイルだ。
「はたけカカシです」
「ほお。お前があの…」
パイプをふかしながら前のソファーに座る。
いろいろと話しかけてくるが、その内容よりも、話の邪魔にならないようにと部屋を退室するあの人の方が気になって仕方がない。
何を聞かれてどう答えたかも記憶にないまま、社長との面会は終了した。
覚えてはいないものの、別れるときのじいさんはご機嫌だったので、きっと無意識に上手くやったのだろう。
なんといってもあの人の直属の上司だし、気に入られて損はない。
社長なんかよりもあの人の前の方がよっぽど緊張するけどね。
社長室を出たときに、ちょうどばったり出会う。
「あ、さっきは大丈夫でしたか?」
「はい。ありがとうございました」
心配そうに曇っていた顔が安堵に緩む。
くっ。なんて可愛いんだ。
これからどうやってまた会えるようにしようか、と悩む。
そうだ!
「あの…やっぱりネクタイよくわからなかったんで、毎朝結んでもらうのにここへ来てもいいですか」
「はい、いいですよ。始業時間前ならいつでも大丈夫です」
優しく微笑んで請け合う姿に少し罪悪感を覚えながら、それでも毎日会う約束を取り付けたことに満足していた。
それからは、もちろん毎朝秘書室に通った。
寝坊して遅刻するのが習慣というか、当然と思っていたこの俺が。
ネクタイを結んでもらうだけでなく、世間話をするのは当然日課になった。
その後、フルネームを『うみのイルカ』というのだと知った。
知ったその日から、心の中では『イルカさん』と呼ぶ。
けれど、まだ本人の前では『うみのさん』としか呼べないでいた。
自分でも少し情けないとは思うが、情けない自分も恋するが故だと思えば愛おしかったりする。
そんなある朝の会話。
「はたけさん、週末の親睦会に行かれますよね」
「え?親睦会ですか?」
そんなのあったっけ。
そういえば聞いたような気がしないでもないかも。
でも面倒だから行くわけないし。
「ええ。秘書課と営業一課の合同花見らしいですよ。ちょうど桜が見頃だろうから、すごく楽しみですね」
合同親睦会。
ってことは一緒に花見をしてお酒を飲んだりするわけ?
なんてラッキーな!
「も、もちろん、行きます!」
ありがとう、営業一課!
今程ここに所属していて、こんなに嬉しかったことはない。
幹事を捕まえて場所と時間を確認しておかなければ。詳しいことを聞いて、二人っきりになる計画を練ろう。
そんなことを決意しているとは露知らず、目の前のイルカさんはにこにこと笑っていた。
「桜、綺麗ですねぇ」
「そうですね」
と返事をする。
嬉しそうに微笑む姿の方がよっぽど綺麗だと思いながら。
ちょっとした隙を盗んで二人で抜け出てきた甲斐があった。
もちろん宴会の席では隣をずっとキープして、周りに睨みを利かせるのは忘れない。
今日は上出来だ。
ご機嫌な俺だった。
「はたけさんはいつも俺の名前、呼びにくそうですね」
それはいつも心の中では『イルカさん』と呼んでるから、『うみのさん』と呼ぶときについつい癖が出てしまう。「イ」だか「う」だかわからない発音になるのだ。
「はあ。あのー、『うみの』って発音しにくいかなぁー、なーんて」
苦し紛れの言い訳をすると、
「あ、そうか!ずっと英語圏だったから『うみの』は発音しにくいですよね」
と変に納得している。
騙してしまったことに少し心を痛めながらも、ここぞとばかりに言い募った。
「そ、そうなんですよ!……あの、それで、これから『イルカさん』って呼んでいいですか」
「はい、いいですよ」
やった!一歩前進。
心の中でガッツポーズをとる。
名前を呼ぶのは親しくなった証拠。
そのうち俺の名前も呼んでもらえるようになってみせる。
そう思い、笑みを浮かべた。
相手の行動に一喜一憂して。ドキドキと胸が高鳴ったり。
こういうのも悪くない。
恋なんてあせるもんじゃない。
あわてて壊してしまったら勿体ないから。
あせらずに少しずつ進んでいこう。コツコツと。
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2003.04.12 |