【りっぱな犬になる方法3】


 野菜嫌いの子供に使う手ではあったけれど、すり下ろした玉葱は不評ではなかった。美味しい美味しいと喜んで食べてくれたので、少し安心した。
 今度はみじん切りにしてみようかなぁと思いながら、皿を片づけていた。
「イルカ先生ー、お風呂上がりました」
 タオルを首にひっかけたカカシ先生が立っていた。ぽたぽたと水滴が床に落ちてシミを作っている。
「あ、またちゃんと拭いてないでしょう! こっちにいらっしゃい」
「はーい」
 裸足でぺたぺたと音をさせながら、近づいてくる。
 何度言ってもろくに拭き取らないまま上がってくるので、その跡は蛇の通り道のようだ。後で掃除しなくちゃ。
 初めてそれを見たとき、今まではどうしていたのかと聞いたら自然乾燥だと言われ、なるほど床のマダラ具合はそのせいかと納得した。
 近づいてきたカカシ先生に腕を伸ばそうとしたその時。
 ブルブル。
 思いきり頭を振られ、水が襲ってきた。
「うわっ!」
 やられた。
 油断していると必ずやられる。着ている服もびっしょり濡れる。
「へへへ」
 悪戯っぽく笑う姿に怒る気も失せそうだ。
「カカシ先生」
「だって……濡れたときにブンブン振って水滴を撒き散らすのは気持ちいいし、そのうえイルカ先生が驚くのが見られて楽しいから」
 ついやっちゃうんです、と縮こまって上目遣いで見られると、はーっと溜息をつくしかない。
「イルカ先生、怒ってるんですか」
 おどおどと尋ねてくるので、「少しね」と答えると泡を喰って縋りついてくる。
「ごめんなさい、もうしません」
 そんな頼りない約束の言葉で許してしまいそうな甘い自分。
 もしこれが本当に飼っている犬だとしたら、きっと俺は舐められる甘いご主人なんだろう。
 いや、それじゃあよくないと自分を鼓舞した。
「それじゃあ、爪を切ったら許してあげます」
「えっ」
 途端に苦虫を噛みつぶしたような、何ともいえない情けない表情へと変わった。
「で、でもまだそんなに伸びてないですよ?」
 ほら、と見せるほっそりした指の先には、充分伸びて邪魔そうな爪があった。
「そんなことありません。これだけ伸びてるといろいろと不便でしょう。先っぽだけでも切りましょうね」
 有無を言わさずそう言うと、顔は強ばって身体は縮こまり、全身で嫌だと叫んでいる。それを見て初めて勝った気がした。
「今までは一体どうしてたんですか」
「暴れるからって、麻酔を打たれて寝ている間に……」
「呆れた」
 まさかそこまでとは。
 しかし今日こそは、あの伸びた爪を切りたい。いつ折れるかとヒヤヒヤするのはまっぴらごめんだ。
 紅先生に貰った本によれば、『爪切りを嫌がるのは昔のトラウマ』と書いてある。『怖くないことを教えてあげてください。徐々に慣らすことが大切です』。なるほど。
「大丈夫、痛くないですよー」
「わー、嫌です!」
 ガリ。
「痛っ」
「ああっ!」
 暴れたときに偶然当たった爪が手の甲を抉り、血が滲んできた。
「イルカ先生、ごめんなさい……」
 カカシ先生はしょんぼりと項垂れる。
「大丈夫。こんなの怪我のうちにも入りませんよ。舐めておけば治ります」
 そう言うやいなや、実際に舐められた。
「わっ、本当に舐める人がいますか!」
「え。駄目でした?」
 いつも軽い怪我は舐めて治すのだと、野生動物のようなことを言う。カカシ先生の行動はまるで犬の習性そのままだ。
 普通は消毒液を使うと説明すると、カカシ先生はさらにしょんぼりしている。
「俺、イルカ先生に迷惑をかけてばかりですね」
 そんなことはない。
 カカシ先生は今までずっとそうやって生きてきたのだ。
 俺が自分勝手なルールを押しつけているのだとしたら?
 いろいろと我慢を強いているのだとしたら?
 迷惑を被っているのは一体どっちなのだろう。
 ふと気づけば、騒ぎを聞きつけたのか、忍犬たちが部屋の入口で様子を窺っている。
 怒られたの? 大丈夫なの?と言いたげな視線に、カカシ先生は苦笑して「怒られちゃったよ」と言うと、慰めようと寄ってきた。身体に乗り上げて頬を舐め出す者もいる。
「わ、くすぐったい」
 じゃれ合う姿はまるで兄弟のようで、微笑ましいと思いながらも俺だけが仲間はずれで取り残されたような気分になった。それは俺一人が人間としての常識にとらわれているからだった。


 夢を見た。
 カカシ先生の夢だった。
 犬に囲まれて幸せそうに笑うカカシ先生。その輪の中にはどうしても入っていけなかった。見えない厚い壁があった。
 叫んでも声は届かない。人間の言葉は通じない。
 完成された美しい、でも悲しい世界。
 そこに人間である俺は異質で。金縛りにあったように立ち尽くすしかなかった。
 目が覚めたとき悲しくて悲しくて、久々に枕を濡らしていることを知った。こんなこと何年ぶりだろう。
「どうしたの、イルカ先生。怖い夢でも見たの?」
 心配そうにかけられる声は優しくて、なおさら泣きたくなった。
「悲しい夢を……」
 見たのだと言おうとして、黙り込んだ。
 本当に?
 俺は悲しかったけれど、カカシ先生は?
 幸せそうに笑っていたじゃないか。
「悲しい夢だったんですか?」
「いえ……もしかしたらそうじゃなかったかも」
 突然の否定の言葉に理解できず、カカシ先生はきょとんとしていた。それから急に笑い出し、俺の身体を自分の布団へと引きずり込んだ。
「なぁーんだ。寝ぼけてるんだ、イルカ先生」
 くすくすと笑いながら抱きしめられた。
 勝手に納得してくれたので、そういうことにしておこう。今はとてもじゃないがうまく話せる自信がない。
 俺にとって悲しいことも、カカシ先生にとってはそうじゃないかもしれない。それが幸せだとしたら、俺はどうしたらいいんだろう。
 カカシ先生は体温に安心したのか、すぐに寝入ってしまった。鼻水でも詰まっているのか、ぴすぴすと鼻を鳴らしながら眠る姿はまさに犬そのものにしか見えなかった。
 夢の姿を思い出して、つきんと胸が痛んだ。


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2005.09.18初出
2011.02.12再掲


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