「ごめんくださーい」
玄関先で声をかけても誰も出てくる気配はない。
でも鍵がかかってなかったから、誰かいるはずなんだけど。
一軒家の広い玄関はしんと静まりかえって寂しかった。
興奮していた頭はだんだんと冷静さが戻ってきて、不安になってきた。
いくらなんでも家に押し掛けるのはどうだろう。仮にも上忍相手に。
でも今さら引けるわけもなく。
耳をすましてみればかすかに気配は感じられるので、庭の方に回ってみることにした。
垣根があって中はまだ見えないが、犬の吠える声が聞こえる。
ああ、よかった。やっぱりいるんだ。
「すみませ…」
顔を出して挨拶をしようとしたら、目の前を犬が横切った。
「あ」
という声が聞こえて、えっ?と思った瞬間、頭から水をかけられた。
「ぶないと言おうと思ったんだけど…」
じょぼじょぼとホースから流れ出る水は、庭に水溜まりを作っていた。


「ホントすみませんね」
「いえ、こちらこそお風呂まで使わせてもらって」
庭で忍犬を洗っている最中だったらしい。
嫌がって逃げる犬をホースで追いかけていたところに、丁度俺が立っていたのだ。
不慮の事故だから仕方がない。
今日のところはこのまま帰ろうと思っていたら、風邪をひいたら大変だからと風呂を沸かしてくれて。 風呂から上がれば、代わりの着替えだの、わざわざ髪をタオルで乾かされるだの、ありとあらゆる世話を焼いてくれた。
今現在、俺は身体からほかほかと湯気を立てて、服が乾くのを待っている状態だった。
ダイニングのテーブルで向かい合って座っている。
噂の人物を目の前にして、どうしようかと戸惑う。
とても他人を下僕の犬扱いをする人とは思えない。見も知らずの自分にこんなに親切にするなんて。
「あのっ、俺はアカデミーで教師をしているイルカという者です」
「はい」
「あのー…えっと…」
もうすでに、抗議するつもりだった決意はどこかに消えてしまっていた。
狼狽えて口ごもっていると。
テーブルの下から丸いサングラスをかけた犬が、構ってもらいたげにまとわりついてきた。
「こら!お客さんなんだからあっちに行ってなさい」
叱られてしぶしぶ離れていく犬に、後でな、と声をかけて頭を撫でていた。
その行為があまりにも愛おしそうで驚いた。
「もしかして、犬が好きなんですか?」
「はい。大好きです」
にっこりと笑う。
「俺は人見知りが激しくて。犬だったら全然大丈夫なんだけど」
「え、でも、とても人見知りするようには見えませんけど」
「それは、あなたを初めて見たとき柴犬みたいな人だなぁと思ったから」
そんなことを言ってにこにこと笑っているだけだった。
つまり俺が柴犬みたいに見えたから特別意識せずに応対できると言っているのだろうか。 いまいち説明が不足していてわかりにくいけれど、たぶんそういうことなのだろう。
犬が大好きで、この人にとっては犬に例えるのは精一杯の誉め言葉なんだと気づく。
なんて不器用な人なんだろう。
犬に例えられたら普通は不愉快に思うという事もわかっていない。
というか彼の流儀ではそれが当たり前なのだ。
まるで不器用でなかなかアカデミーに馴染めない子供を見ているようで、放っておけない気分になる。
「じゃあ、あなたはロシアン・ライカみたな人ですね」
狼の血が混じった狩猟犬。怪我をしてもかまわず走り回る精神力の強い犬で、俺は好きだった。
彼の流儀でいえば、たぶん誉め言葉にあたるはず。
「ホントですかっ!」
予想以上に顔を輝かせて嬉しそうに笑った。
そんな姿を見て、噂なんてあてにならないと思った。
その人の本質もわからずに、ただ自分たちの物差しだけで見ているだけだ。そして勝手な尾ひれを付けて満足している。妬みが混じって悪質なものだってある。
今まで色眼鏡で見ていた自分が恥ずかしい。
自分の眼で直接見て判断すべきだった。
『なんていうか、あの人が自分だけに笑いかけてくれたら…幸せだろうなぁ』
友人の言葉がふと思い出された。
きっとそうなんだろうと思う。
こんな風に笑う人が、自分のためだけに笑ってくれたら、もっと幸せな気分になれるだろう。
なんとなくそんな気がした。


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